二〇一八年の誕生日に考えた「変わること」に「変わらぬこと」

七月九日は、一年に一度の誕生日。

節目は年末年始で「どういう一年にしたいか」といったことを考えるもので、

<< 2017年12月31日投稿:画像は記事にリンク >> あと数時間で2018年、そんな頃合い大晦日に振り返る2017年

その意味では「おおよそ半年が経って」という段階ですが、

満足出来ている点は、いろいろ断続的に人に会えていること。

不満は旅に出られていないこと。

直近では変わることと、変わらないことを意識づけられ、自分がもはや20、30歳代の身体ではないということは時折実感させられることで、

行動したことに対して喜びを感じる傾向が強いですが、そう出ない時の楽しみ方を覚えていくことが

日々の充実感を高めていくことにつながりそうと感じています。

変わらないことに対しては、変化を意図しても「思ったように外側に出て表れていかないものだなぁ」と。

この前もご無沙汰となっていた人との再会の場面で、

「変わらないですねぇ」なんてトーン強めに反応されてしまうし ^^;  その時は、褒め言葉として受け止めましたが、

その「変わらない」ことに関して、養老孟司先生の著書によると・・

” 西洋では諸行無常を古代ギリシャ時代に発見している。ヘラクレイトス学派の「万物流転」である。

ギリシャ語ではパンタ・レイ(この世のすべてのものが、たえまなく変化している、の意)。

ところがこの言葉はヘラクレイトスの時代から「同じ」である。実物はひたすら変化するけれども、言葉は変わらない、いつも同じである。

ここでも意識の持つ「同じにする」というはたらきが貫徹している。言葉は意識が扱うものだからである。

繰り返すが、「同じにする」というはたらきは、ヒトの意識の中にしか存在しない。

なぜ、私は私、同じ私なのか。もはや答えは明らかであろう。それは考えている私。意識の中の私だからである。

身体そのものは、昨日と今日とで、決して同じではない。哲学でいう自己同一性、それは意識の持つ「同じだとするはたらき」そのものといえる。

今日の意識が、昨日の意識を指して、「同じ私」というからである。しかしその「私」を外侮から科学的・客観的・物質的に、すなわち感覚を介して観察すれば、ひたすら変化を続けている。

意識は毎日、眠ることで定期的に失われる。でも生きている限り、毎日ふたたび戻ってくる。

戻ってきた意識は「同じだとするはたらき」を含んでいる。だから意識が戻ったらすぐに「同じ私」が戻ってしまう。”(『遺言』p134-135)

要は、昔と同じ人間(自分)は生物学的?にいないということで、

自分は日々生まれ変わっているということと引用文は読めますが、そう考えると、この先の次の節目(年末年始)、次の次の節目(誕生日)が楽しみになってきます。

そんなことを考えた2018年、年に一度の誕生日でありましたー


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