先週、中間記をアップロードした
高田文夫さんの『誰も書けなかった「笑芸論」森繁久彌からビートたけしまで』を読了。
(中間記後に)読み進めた
第二章 ビートたけし誕生
第三章 自伝的「東京笑芸論」
秘蔵フォトアルバム
はみ出しフォトアルバム
の中で、自然と引き込まれていったのは・・
” ポール牧やら青空球児から、「浅草に凄ぇのがいるよ。高田ちゃんと一緒くらいの年かっこう」と聞いて、浅草へ向かった。そこで見たのがツービートだった。
物凄い早口で、田舎者を馬鹿にし、婆ァ死ねと毒づく小さい方。こりゃたまげた。テレビに出る出ない以前に危険な存在だ。”(p128)
或いは
” 一〇年以上の屈折を経て、ドッカーンと火を吹いた毒舌漫才は、アッという間に全国に飛び火した。
売れなくて明治大学も中退で、足立区で、相方が山形で、という三重苦、四重苦のたけしが、
自分より弱い者を目クソ鼻クソで笑いとばすから毒の中に愛嬌があった。
「人のこと言えるのか」ってやつである。その首のカクッカクッはなんだとつっこまれる前であった。”(p133)
という記述が含まれる 第二書 ビートたけし誕生。
懐かしや80年代に喰らった笑撃
私が波に乗っかることが出来たのは、MANZAIブームの頃でしたが、
当時、新聞のラテ欄に「ツービート」の名を見つけては、(ビデオデッキの普及がなかったため)番組開始時間に合わせてTVに座ってワクワク、ドキドキ感を搔き立てられていた日々の思い出を引っ張り出されました。
芸能史的な
“たけしがこの世に登場する昭和五五年のMANZAIブームの時、山藤章二宗匠はズバリみごとにこう言い当て、喝破した。
「漫才がフィクションからノンフィクションに変った」”(p134)
といった指摘も興味深く、
当時の熱気を引っ張り出されたり、今の「お笑い」と異なる「笑い」の時代をリバイバルさせてくれた著作で
懐かしさに、高田文夫さんの視点で捉えた体系的な芸能史を読んで楽しむことが出来ます。