外山滋比古先生の時代を超えて読み継がれる名著『思考の整理学』を読了。
もともと昨年(2019年)参加した外山滋比古先生の講演会↙️
がきっかけとなり、「また、読んでみようか」と実家から引っ張り出してきていたところ
そこから差込み等々、1年の熟成期間を経て(笑)再び手に取り、読み進めた次第。
一九八六年以来
本書を最初に知ったのは80年代中頃のはずで、その時から評判であったように思いますが、
「一体、いつ出版されたのだろう?」と確認してみれば・・
一九八六年四月。自分が持っているのは一九八七年一月の第四刷で、恐らく出版から程なく購入していたようですが、
その頃は読書の習慣はなく、いつ読んだのか、最後まできちんと読んだのか、といった履歴は一切記憶になし。
読み始めてみると、ど頭の「グライダー」は覚えていて
” この本では、グライダー兼飛行機のような人間となるには、どういうことを心掛ければよいかを考えたい。”(p15)
といった問題提起が成されており、グライダーが意味することは
” 学校の生徒は、先生と教科書にひっぱられて勉強する。自学自習ということばこそあるけれども、独力で知識を得るのではない。いわばグライダーのようなものだ。自力では飛び上がることはできない。”(p20)
というもの。
そこから
” 整理とは、その人のもっている関心、興味、価値観(これらはだいたいにおいて同心円を描く)によって、ふるいにかける作業にほかならない。
価値のものさしがはっきりしないで整理をすれば、大切なものをすて、どうでもいいものを残す愚をくりかえすであろう。”(p132)
や
” この本が、知ること、よりも、考えることに、重点をおいてきているのも、知る活動の中には「機械的」側面が大きく、それだけ、「人間的」性格に問題をはらんでいるとする考え方に立っているからである。”(p213-214)
といった軸となる論に、
” 長く説明しなければならないほど、考えが未整理なのである。よく考え抜かれてくれば、おのずから中心がしぼられてくる。”(p141)
” 無我夢中、散歩中、入浴中がいい考えの浮ぶいい状態であると考えられる。いずれも、「最中」である。”(p177)
といった(わたし的)学びに、一項目5〜6ページといった分量(全223ページ)からさくさくと読み進められました。
「考える」ことについて考えてみる
本書が出版された背景には
” かつての学校では、ほとんどまったく、考えることについて教えなかった。それでも、気がついてみると、われわれはそれぞれ、いつのまにか我流の考え方、自分だけの考えのまとめ方をもっている。”(p216)
との考察から、「考える」ことに斬り込まれたのであろうと。
出版当時から一人1台(以上)コンピューターを所有(/駆使)する時代に突入し、日常を取り巻く環境は大きく変わったものの、
自分で考え抜くことの大切さは今も、これからの時代も変わらぬことであろうと。
一冊通読せずとも「考える」ことに学びを欲した時、拾い読みでもヒントを与えてくれる著書として、これからも読者から重宝される著書の中の一冊であるように読後感じさせられました。