文筆家、編集者 吉川浩満さんの『理不尽な進化 増補新版』を読み始め
序章 進化論の時代
第一章 絶滅のシナリオ
第二章 適者生存とはなにか
第三章 ダーウィニズムはなぜそう呼ばれるのか
終章 理不尽にたいする態度
文庫版付録 パンとゲシュタポ
等、章立て(別途、まえがき、あとがき 他)されているうち「第三章 ダーウィニズムはなぜそう呼ばれるのか 」まで読み終えたので、そこまでのおさらい。
サイン本販売現場に遭遇し、
内容への興味を刺激され、触手を動かしていた経緯。
絶滅に追いやられた生物の歴史
冒頭の「まえがき」で、
” 私たちはふつう、生物の進化を生き残りの観点から見ている。進化論は、競争を勝ち抜いて生存と繁殖に成功する者、すなわち適者の条件を問う。
そうすることで、生き物たちがどのように姿形や行動を変化させてきたかを説明する。そこで描かれる生物の歴史は、紆余曲折はあれど、サクセスストーリーの歴史だ。
しかし本書は、それとは逆に、絶滅という観点から生物の歴史をとらえかえしてみようと提案する。敗者の側から見た失敗の歴史、日の当たらない裏街道の歴史を覗いてみるのである。”(p7)
や
” 本書の主目的は、進化論を解説したり評価したりすることよりも、進化論と私たちの関係について考察することにある。
いいかえれば、進化論を通じて私たち自身をよりよく理解しようとする試みである。”(p9)
など本書の試みについて示され、(第一章以降の)本編で
” 世に出てきた生物種の九九・九パーセントが絶滅するという事実だけでも十分に強烈なのに、それらはたいてい運がわるいせいで絶滅するというのだから。
生物は落ち度もないのに絶滅する。しかも、それこそが普通なのである。”(p42)
或いは
“珪藻類は優秀だから生き残ったというより、新たに設定されたルールのもとで、優秀ということになったのだといえる。
恐竜が衝突の冬によって劣っているということになったのと対照的である。
新しいルールは、生物がそれまで培ってきた実績をないがしろにし、いわば理不尽に生存者と犠牲者を選んだのである。”(p70)
といった考察を踏まえ、論が展開されていきます。
遺伝子と運と
全体的にアカデミックで読解していくに十分な前提知識がないため、難解ではあるものの
” 第一章では、じつに九九・九パーセントの生物種が絶滅したということ、しかも能力において劣っていた(遺伝子がわるかった)からというより、たまたま居合わせた時代と場所がわるかった(運がわるかった)せいで絶滅したらしいことを見た。
・・中略・・
適者がなぜ適者であるかは、生存したこと自体によって定義される。その意味で自然淘汰説は一種のトートロジーを含むが、それは進化論の欠点ではない。
進化論は、生存を適者の基準としたことで、経験科学としての有効性を獲得したからである。
しかし他方で、その同じ自然淘汰説が、私たちの日常的な世界像においては情報量ゼロの「言葉のお守り」をもたらす。
私たちは、自然淘汰説が持つ独特な性質に導かれて、適者に基準を与えるトートロジーを一種の自然法則のようなものとみなし、あらゆる事象にかぶせることができる言葉の呪術として用いているのだ。”(p174-175)
といった具合、次章の冒頭部などにまとめに重心を置き読み進めている状況。
終章は第三章までの論争の行方などを踏まえ、更に深いところへ誘(いざな)われていく見込みですが、より多くを得ることが出来るよう実質白紙の分野の学びを楽しみにしたく思います。