日本軍のダーウィン空襲から80年追悼式
” 2月19日付ABC放送(電子版)は、NTダーウィン戦没者追悼碑において、日本軍のダーウィン空襲80周年の追悼式が行われたと報じている。
式典の前日には、空襲の直前に豪海軍軍艦「デロレイン」の投下爆雷で沈没した伊号124潜水艦の艦長乗員80名の名前を刻んだ石碑の除幕式が山上信吾駐豪日本大使、マイケル・ガナーNT自治政府主席大臣が立ち会って開かれている。
1942年2月19日、2回の空襲で242機の日本軍機がダーウィン港や市内に爆弾を投下、一般市民の住宅なども破壊、250人ほどが亡くなっている。
空襲が始まったのと同じ午前9時58分にサイレンが鳴り渡り、その後、当時の地上の混乱と流血が模擬再現され、式典の開始を告げた。
その後、ダーウィンの先住民族グループ、ララキアを代表してビラワラ・リー氏が「歓迎の挨拶」を行い、式が始まった。
式典には1000人を超える人々が集まり、スコット・モリソン連邦首相、ピーター・ダットン国防相、アンソニー・アルバネージ連邦野党党首、デビッド・ハーリー連邦総督らの他、ガナーNT主席大臣、コン・バツカリス・ダーウィン市長らも列席、日本からも山上大使が列席、献花した。
モリソン首相は、80年前の空襲以降20か月にわたって断続的に続いた日本軍の空襲において命を落とした人々を追悼する弔辞を朗読した。
ガナー主席大臣は、かつて敵味方だった日本、アメリカがオーストラリアの式典に肩を並べて出席するに至った歴史の変化について語った。
この式典には1942年の空襲時に兵士としてダーウィンを守っていたブライアン・ウィンスピア氏が当時の軍服を着て出席した。
ウィンスピア氏は現在101歳、ダーウィンで第二次世界大戦を体験したわずかな生き残りの1人であり、陣地の配置についていた当時まだ21歳のウィンスピア氏は、政界や地元コミュニティ・リーダーに混じって追悼碑に献花した。”(出典:NICHIGO PRESS)
80年となると世代を跨ぐ尺(長さ)になりますが、繰り返してはならぬことへの誓いに、学びに、築かれるべき未来に、両国の歴史の蓄積と共に志向されるべき近未来に考えを及ばされました。
上記はFacebookページ「オーストラリア ライフスタイル&ビジネス研究所」の2022年2月20日分の掲載記事です。
オーストラリアにご興味をお持ちの方、Facebookページへの「いいね!」を是非宜しくお願い致します。