” 東洋館の寄席に出演している師匠方はテレビに出演することがほとんどなくて、舞台だけで飯を食えている芸人はごく一部です。彼らはなぜ舞台に上がるんだろう ー そう考えると、「そこに魔力があるから」という結論に落ち着きます。
・・中略・・
天国に旅立った師匠のエピソードを話すことは極力控えていましたが、この書籍に記録することにしました。師匠方の人生の一片に触れてもらえたら、最高、最幸です。”(p2/3)
と浅草の東洋館と所縁ある芸人さんに焦点を当てた『劇場舎人 ずっと売れたい漫才師』を読了。
(2024年)3月頃の発売から承知していて、半年ほど経過してのサイン本入手機会を捉え手元に引き寄せていた経緯。
浅草が眩しかった頃・・ そして令和
本書は
” その頃、マセキの社長から「漫才協会に入らないか」という話をもらうようになりました。
社長は昔から浅草を愛していました。1950〜60年代の浅草の写真を見ると、いまの渋谷スクランブル交差点前のように賑わっています。当時は浅草に娯楽が集まっていたんです。社長は「浅草から再びスターを出したい」と夢見ていました。
マセキ芸能社からウッチャンナンチャンさんや出川哲郎さんというスターが生まれましたが、みなさんテレビで売れた人。社長には「浅草の寄席でスターを作りたい」という想いがあったんです。”(p14)
という塙宣之さんが漫才協会に東洋館と深く関わっていくことになるきっかけに、
” 舞台では、かほり師匠が強い妻で、遊平師匠がダメ亭主なんですけど、芸人としては遊平師匠の方がかほり師匠より年上で芸歴も長いので、そのプライドが垣間見えました。最後までピエロに徹すればいいのに、「ありがとうございました」と終わって、遊平師匠は舞台袖までの10秒くらいで「ふぅ・・・」とため息を漏らしながらネクタイを締めて戻っていく。観ている側は「ダメ亭主は演技なんだ」と思ってしまうんです。”(p68-69)
に、
” 僕のYouTubeチャンネルで、「コンビ名から『コント』を取ってほしい」と山口さんに改名を要求するドッキリ企画をやりました。山口さんは楽しんでくれたけど、僕の母親から電話があって「権力を手にしてから、あなたはおかしくなってしまった」と怒られてしまったんです。これからは紛らわしいドッキリに細心の注意を払おうと思います。”(p92-93)
という本筋の東洋館で輝きを放った師匠列伝に、塙宣之さんの(師匠方との)交友録等、登場人物もりだくさん。
漫才協会兼東洋館ガイドブック
ツービートが頭角を表してきた頃の漫才ブームから距離感こそ異なれどもお笑い番組に親しんできて、東洋館にも塙宣之さん目当てで往訪した立場ながら
本書で初めて知る芸人の方々が多数。冒頭で引用した通り、既に鬼籍に入られた芸人さんたちも多数取り上げられていますが、東洋館を訪れる前などに読んでおくと、より楽しめるようになる一冊と思いました ^^