去年の秋頃から世に言う幹事、5〜15人規模の集まりを企画する役回りを担い、
先の2月29日も「4年に一度の日、印象に残る過ごし方をしましょう」との呼びかけから、月曜日ながら10名程度が集い終電近くまで旧交を温めていました。
多くの場合、会の途中、若しくは終わってから感謝され、「やって良かったなぁ」と思うものですが、
いかんせん集まっている時間に対して準備期間の方が長く、もどかしい思いをすることもしばし。
今回、一連の機会に感じていたことを備忘録的にとどめておこうと思います。
なお、書いてることには、直接、私が連絡の当事者とならず、友人づてに結果を得た場合も有り、客観性があるものと思います。
「なしのつぶて」よりは・・
自分が幹事となる場合、短くて半年、長くて数年振りといった間隔で、まずはコアな人たちと予定を調整して
こういう時だからこそといった感じで、ご無沙汰の人などへ連絡を取るところから企画が本格化するわけですが・・
(「既読」等の表記から)届いているであろうも「応答無し」のパターンが1〜2割(という印象)。
同窓会といったケースで共通の友人が入り組んでいる場合、10名前後が集まっても、誰にも近況を把握されていないという友人は数名いるもので、
その時は、来れないまでも、何らか空白を埋められる機会を活用しておくことは、後々を考慮した場合、(本人がコミュニティからの離脱を望んでいる場合などを除いて)無難と思います。
返信が届いた、のは良いのだけれども
次に結構多いのが、返信は来るのだけれども、「欠席」など事実関係のみ回答してくるパターン。
声掛けした方としては、その情報も重要ですが「呼ばれて嬉しかったのか」等、連絡に対してどう思ったのかも知りたいところ。
本人が来れないまでも、集まりの当日、その人の近況を伝えられるくらいのリップサービス?、例えば・・
「**(=名前)来たがっていたけれども、この時期は会社から離れられないみたい」程度の事でも、出席者との絆を感じられ、印象が全然違ってくるように思います。
集まりに関して、参加している人はだいたい下記の3つのパターンに分かれると思っています。
1つは自分で企画(することが多い)人、1つはもっぱら誘われる人、もう1つはどっちも半分程度という人。
もっぱら誘われる人の場合、「誘いを断る=相手と会う機会自体が無くなってしまう」ことを意味するので、断り方は今後が絡むポイントになるでしょう。
あとは当日の状況が読めず、「保留」の状態から動けなくなってしまうパターンですが、
所詮、先の事は、声掛けしている方も「100%ではない」というのが本当のところ。
決めないことには、あらゆる行事(披露宴、スポーツ観戦、コンサート等々)に足を運ぶことが出来なくなってしまいます。
行きたい気持ちがあれば、その事だけでも即座に伝えることが大事で、この配慮を出来る人が少数であるように感じています。
「何とかする」との思いが伝わってくれば、声掛けした方も可能な限り期限を伸ばす等、来てもらえる状況をと考えますし、
もし当日がダメでも、次を企画する時には、その人の予定に配慮して企画をしたりといった心情も働きます。
また、意外と見落とされがちな点ですが、最初から来れずとも、途中から駆けつけてくれる「何とかする」の思いであったり、
後日、集まりの模様を聞いてくるなどの「気にかけてくれる感」は、とても嬉しい行為です。
文章は「感情」を伝えるもの
神田昌典さんの言葉で、
“「文章は情報を伝えるのではない。”感情”を伝えるために書くのだ」”(『稼ぐ言葉の法則「新・PASONAの法則」と売れる公式41』p136-137)
という名言がありますが、これはコピーライティングの場合に限らず、こういった状況でも然り、
顔を合わせることの出来た人たちとの前向きな交流とともに、たとえ、その状況が叶わずとも、
相手の「何とかしたい」の思いが伝わってくると、幹事をやって良かったと思える対応で、「また次もやろう」といった動機付けにも繋がります。
私自身の自戒の念を込めて、声掛けしてもらった人への感謝は留意しようと思った一連の幹事経験でした。
「幹事の立場で誘って嬉しい、何とかする人」への1件のフィードバック
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