先日、「田中角栄の人生」と題された作家の大下英治先生の講演会に参加した際の
特典対象の書籍であった『田中角栄の酒』を読み始め、
五章あるうち第二章まで読み終えたので、そこまでのまとめ。
第一章 田中角栄議員誕生す、第二章 我が息子「京」への思慕、と題された章で、
出生地である新潟での幼少時のエピソードから、自民党の幹事長として臨んだ参議院選挙(昭和四十六年)まで。
その中から興味深かったところを下記に引用したいと思います。
掴んで、魅きつけた人心掌握術
田中角栄元首相に関して、話題になることが多い人心収攬術に関して・・
” 田中は、午前中に平均三百人にもおよぶ客をさばく。田中は、それだけの人数をさばきながらも、一人ひとりの心を自分に魅きつける術を知っていた。
一回の陳情に割く時間は、だいたい三分にすぎない。田中は、その時間のなかで、客の陳情をすばやく判断し、できることは、「なんとか、やってみよう」と言う。
逆にできないことは、はっきり「できない」と言う。
物事を曖昧にし、できないことをいつまでもできないと言わないで、相手を生殺しにするようなまねはしない。
一方、「なんとか、やってみよう」と言うときは、かならずできる、と踏んだときである。
そして、その陳情を、秘書に二日か三日で手際よく処理させ、客に連絡させる。田中のすばやい対応に陳情客の感激も、倍加する。
< やっぱり、田中先生は、凄いんだ >
初めての客もやってくる。その客と会うのも、やはりわずか三分だ。
陳情客が帰ると、初めての客の名刺を、秘書に整理させる。
その客が二度目にやってくるときに、事前に秘書にその客自身、あるいは家族、親戚などの近況を調べさせておく。
もちろん、前回三分ぐらいしか会っていないので、名前など覚えてはいない。相手が来るまでに名前も、しっかり覚える。
そうして、相手がやってくると、
「よう、○○君、元気かい」というように相手の名前をはっきり言って声をかける。
相手は、まさか自分の名前など大蔵大臣が覚えているはずはないだろうと思っている。
しかし、田中は、名前は覚えていてくれた。大蔵大臣から、自分の名前を呼ばれたということに、無上の喜びを感じる。”(p59-61)
その場で、名前を呼ばれた方々の心情は容易に想像出来るところですが(笑)
会話の中に名前を入れる配慮だけでも、(照れであったり、記憶が曖昧であったり)なかなか徹底出来ないところ、
田中角栄元首相の真骨頂が発揮されているように感じ見事に思いました。
お金の渡し方にみせる気遣い
もう一つは、お金の扱いに関して・・
” 「金はもらうときより、渡すときに気をつけろよ。相手に負担のかかるような渡し方をしちゃ、死に金になる。
だから、金をくれてやるというような態度で渡してはいけないよ」
田中は、幼いことから、父の借金のために苦労させられた。親戚たちにも、下げたくない頭を何度も下げた。
その悔しさやつらさを、忘れていなかった。そのため、佐藤昭(註:秘書)には、執拗と思えるほどに念入りに釘を刺したのである。
記者は、あらためて、田中と福田の日本での金の使い方のちがいにも思いを馳せた。
いっぽう、角栄のライバルの福田赳夫のカネの渡し方は、世田谷区野沢の私邸に、子飼いの議員を呼びつける。
そうして、これを持ってけ、という感じで、新聞紙に包んだ金を渡す。福田は、それを豪放だ、と思っている。いかにも親分らしい、と。
しかし、相手の議員にしてみれば、気持ちは複雑なはずだ。金は欲しい。
しかし、福田からくれてやるからとばかりに金を渡されると、ありがたいという気持ちを先に、惨めさが立つ。
田中は、まったくちがっていた。わざわざ、自分で、子飼いの議員のところへ金を持っていく。もし自分が行けない場合は、先に相手に電話をかけて言う。
「使いの者に持たせるから・・・」
どうぞ、もらってください、といわんばかりだ。たとえば、おなじ三百万円でも、これでは価値がちがってくる。”(p98-99)
お金に関しては、本書の色んな場面で出てきて、田中角栄元総理と切っても切れない関係のものでもありましたが
翻弄された面は否定出来ないものの、その特性、怖さはよく分かっていたということだと思います。
昭和から語り継がれる伝説
残り160ページほど。総理大臣時代、以降に差し掛かっていくものと思いますが、
昭和の匂いであったり、時代を超えて語り継がれている伝説の人物像を楽しみたいと思います。
なお、先日視聴した映像ですが、田中角栄ブームの火付け役?石原慎太郎元東京都知事の『天才』出版に当たって
金スマに出演された際の映像が興味深かったので、映像を差し込んでおきます。
金スマ 石原慎太郎 x 田中角栄 4月1日 160401
2時間を超える長尺ですが、(再現)映像等で故人を振り返ることが出来、ご関心お持ちの方など一見の価値のある特番であると思います。