『蜃気楼「長嶋茂雄」という聖域』を読了。
手元の本が切れ「次、新しいのを何にしようかな・・」と悩むことしばし。そんな中で、すーっと手が伸びた一冊。
長嶋さんに関しては、賛否両論が報道の立場で一般的でありながら、極少ない偏った報道が多い分野(人物)との印象を持っており、
その実像に迫る感じに興味を持っての読み始め。
参考までに、長嶋さんの注目度を図るエピソードとして、
” 戦前から戦後のあらゆる雑誌資料が保存されている世田谷区の「大宅壮一文庫」には、2014年6月現在で、約600万件の総牽引件数資料が所蔵されている。
このうち資料件数の個人ランキングでは、1位が歌手・松田聖子の4907件、2位が政治家・小沢一郎の4827件、そして3位が長嶋茂雄の4044件となっており、
このことからも長嶋が戦後のスポーツ選手としてだけではなく、戦後日本の最大のヒーローだったことはまぎれもない事実といえる。” (p3-4)
長嶋さんの存在感は言うに及ばずの感はありますが、他の人たちとこういった観点で比べられる感じが新鮮でした。
長嶋茂雄の原点
長嶋さんが社会に出るに当たって、
” 僕は大学生の頃、最初に考えたのは、自分は将来社会に出たときにどうしたら自分の周りの人たちを喜ばせることができるのか、ということでしたね ” (p24)
とここにショーマンシップに溢れた源泉を感じることが出来ますが、半面で、
” 長嶋さんは言うなれば、人から必要とされることで、ご自分の在り様を構築してきた方だと思います。そこにはつねに外界に向かってにこやかな自分を見せるという姿勢がある。
ヒマワリのような笑顔を見て、人々は長嶋さんにポジティヴなイメージを投影してきましたが、ただし、その長嶋さんにしても私たち同様『見せられない自分』というものがあるのです。”(p52)
と、主に後者、光が当てられなかった部分に、ご家族であったり、取り巻きに焦点を当てることで、スーパースターの実像に迫ろとしたもの。
本全体は223ページあり、後半は長嶋さんご自身というより、周辺に迫るもので、ちょっと興味が薄れてしまう面は否めないものの
ところどころに心理分析によってスーパースターの実像に迫る試みがなされ
一般人との対比であったり、共通点が述べられ、その辺の対比は関心を持たされました。
長嶋報道のなぜ?
冒頭に記載した長嶋関連記事に関する傾向・・
” 監督としての采配批判などを除いて、長嶋本人への誹謗中傷や、その家族に対するゴシップ的な記事がほとんど見当たらないことだ。
これは日本の著名人において、ある意味長嶋だけに見られる現象でもある。
・・中略・・
著名人の多くがスキャンダル報道の餌食になっている昨今、なぜマスメディアは長嶋とその家族をかくも守ろうとしてきたのか。
「理由は4つほど考えられます」
・・中略・・
「ひとつは長嶋さんが国民的な英雄であること。2つ目は長嶋さんの憎まれない人柄。そこから3つ目の理由が生まれます。長嶋さんの悪口を書こうものなら、読者の反発がすごいんですよ。
編集部に抗議の電話がくるし、面白かった記事の読者アンケートでも票があまり入らない。その分だけ雑誌の売上も落ちて、結局は会社自体が損するわけです。
そして、4つ目の理由、これが重要なのだと思いますが、雑誌の編集者や専属のライターに熱烈な長嶋ファンが多かったということです。” (p102-103)
ここにこの本が出版された背景もあるわけですが、憎めない人柄に、身近な人たちを巻き込んでしまうご本人の魅力、
・・因みに松田聖子さんも会った人それぞれが、松田聖子が自分に好意を持っているとの錯覚を抱かせたとの逸話を耳にした事があります・・
” 天才的な人だけがつくれる実績を、自らの体でやってのけた現実と、その実績から生まれたスーパースター的な人気という虚構である ” (p221)
と、本著ではスーパースター長嶋茂雄をこのように分析されています。
スーパースターを越えた領域、長嶋茂雄
この聖域に包まれた感じ、後にも先にも長嶋さん一代限りと思いますが、強いて上げるとこの領域に近付いているのが
サッカーのKING Kazuこと三浦知良選手であったり、イチロー選手なのかもしれませんが
二人とも相応に批判の対象となった時期、経験があり、やはり「長嶋茂雄」という時代のアイコンは、やはり一代限りの特別なものだった感じですね。