前回、読了記をアップロードした ↓
『幸福の「資本」論』の中で、人と人の結びつき、在りように関して興味深い記述があり・・
” 日本の社会における「友だち」を定義しましょう。それは、たまたま学校で同じクラスになったという偶然から生まれる人間関係のことです。
・・中略・・
たまたま友だちになったとしても、学校が変われば友だち関係はリセットされます。
私立学校に進学したり、大学で地元を離れればそれまでの友情は摩滅していくでしょう。異なる友だち関係はお互いを排除しあうのです。
地球上には何十億人ものひとが生きていますが、私たちはこのきわめて限定的な条件を満たしたひととしか友だちになれません。
そのうえ仮に友だちになったとしても、それを維持するのはもっと難しいのですから、「友だち」がいること自体がひとつの奇跡です。
こうして、40代を過ぎた頃から友だちは急速に減っていきます。”(p190-191)
「これかー」と、この一文にFacebookをはじめとするSNSが隆盛を極めた一因を感じた思いがして印象に残りました。
この前提に立つと、よく20代など若い人たちが、Facebookをやっていないとされる状況に対しては、
身近に友だちが多数いることで(Facebookを)やる必然性はない(=身近にいる友だちたちで人間関係の充足感は得られる)と説明され、
私自身の過去を振り返っても、20、30代は学生時代の同級生などと野球の大会に参加し、(月数回など)顔を合わせる機会が多かったものの
チームメートの中に一人二人と、興味の対象が移ろっていく人、家庭環境(結婚、子どもの誕生)の変化や転勤など、
これらの要因ににより、年々母数が少なくなり、やがて9人揃えることが困難となり、活動が滞るようになっていったのが30代の半ばから40代に差し掛かる頃であったように記憶。
必然、友だちと過ごす時間が少なくなり、その間隙を縫う形で掲示板などインターネットコミュニティやSNSの台頭があり、自分自身、傾倒していった経緯であったような。
ただ、橘玲さんが指摘される通り、そこから得られる感覚は学生時代の友だちとは異なる面もあり、
学生時代の友だちは、いくらご無沙汰の感覚が開こうが、何かの機会に一気に「友だち」に戻れるのが特徴的で
インターネットを介して繋がった人たちに対しても友だちという感覚は持っているものの、
そこに至るまでは断続的なコメントのやり取りなどマメさが重要(学校の友だちは否が応でも顔を合わせる)で、
長続きするパターンは自分の場合、共通の趣味(ex.ロック好き)の有無がポイントである点、特徴と捉えています。
「友だち」が出来るワケ
上掲の『幸福の「資本」論』著者の橘玲さんは、友だち、友情が育まれる土壌について・・
” 友だち関係の核にあるものは何か。それをひと言でいうなら「平等体験」です。
もちろん一人ひとりを見れば、お金持ちの子もいれば家が貧しい子もいるし、賢い子やかわいい子、恥ずかしがりの子などがいるでしょう。
しかしここで大事なのは、クラスという新しい共同体のなかで、みんなが横一列に並んでいるという主観的な経験です。
これが平等体験で、お互いの関係の核にこれがあるからこそ「友情」が成立します。”(p192)
と、これも「なるほどなぁ」と。
私自身、多感な頃に過ごした寮生活や留学など、濃い時間を過ごした人たちとの共通体験は、友だちが生まれる背景になっていたように振り返ります。
人間関係の本質
友だち、人付き合いに関しては、先日よくシェアされていたことで、私のところにも流れてきた記事↓の中で
” ——なるほど。ただ、孤独に生きようと思いながら躊躇している人の中には、「あまり他人と距離を置きすぎると、いざという時に誰も助けてくれなくなるのでは」と考える人もいます。
諸富:ああ、それなら心配はいりません。
広く浅くの表面的な関係で結ばれた友達が、いざという時に、本気であなたを助けてくれると思いますか。
相手が苦しい時に自分の身を投げ出してでも何とかしようとする。そうした深い人間関係は、「孤独を知った者同士」の間にこそ生まれる。人間は本来孤独であり、それぞれ自分の道を生きるしかない。
そうやって孤独を引き受けた者同士だから、分かり合うための努力をする。孤独を知った者同士だからこそ響き合える、深い出会いがあるんです。”
とあり、SNSが広く支持を得ている片側で、人間関係を深く掘り下げていくと、SNSと対極的なところに目を向けるべき本質があるのかもしれません。
昨年3月に「脱SNS依存の幸福論」なるタイトルで一本書いていたので、今回は2017年7月時点の続編、アップデートということに。