先日、中間記をアップロードした
ジャーナリスト 青木理さんの『情報隠蔽国家』を読了.-
本書の最後、「おわりの言葉にかえて」で
” 本書に収録したのは、本文中でも書いたとおり、いずれも『サンデー毎日』誌上で発表したルポルタージュやコラムがもととなっている。”(p230)
と元ネタに、
” 収録したルポルタージュやコラムの論旨はかなり一貫し、それぞれ通底している。
特定秘密保護法や盗聴法、共謀罪法などによって政府や治安当局の権限ばかりが大幅に強化され、私たちの情報を吸いあげる準備は整った。いや、すでに吸いあげられている。
一方で森友学園や加計学園、防衛省・自衛隊をめぐる事例などで明らかなとおり、本来は公開されるべき公開情報は徹底して隠され、私たちは情報獲得の手段すら与えられていない。
そう、私たちはまさに暗闇の中に立たされていないか。無知に追いやられ、都合よく支配されようとはしていないか。
それはまさに悲劇への序章ではないのか。そうしたことを痛切に再考する一助に本書がなれば、著者としてそれ以上の幸せはない。”(p230-231)
と本書への思い、読者への問題提起が記されています。
知られざる、水面下での・・
(青木理さんが)お話しされていたことで、公権力による監視が着々と進行している現状に関して・・
” この国では警察が「体感治安」なる造語を振りかざし、治安は年々悪化しているような印象も広がっているが、
殺人事件の発生件数は増えておらず、ここ数年は微減、あるいは横ばい傾向が続き、おおむね年間1,000件前後で推移している。
そして、発生する殺人事件の半数は、実を言うと家庭内で発生しているのである。
ならば、すべての家庭に防犯カメラを設置したらいい。防犯カメラに犯罪防止効果があるなら、半数もの殺人事件が防止できるし、発生してしまっても速やかかつ確実な「解決」が可能。
そう言うと大抵の人は「いやぁ、それはいくらなんでも・・・」と顔を曇らせる。
「プライバシーよりも安心・安全を優先する」というのなら、最も効果的なカメラ設置案にはなぜ懐疑的なのか、私などは不思議で仕方ない。
冗談はともかく(決して冗談ではないのだが)、現実的には今後も防犯カメラの増殖に歯止めはかからないだろう。”(p105)
の一文に、歪んだ現実の一端を見せつけられた思いを抱いたところ。また、沖縄の米軍基地反対運動に取り組まれている目取真俊さんに関する引用で、
” 「どんなに集会をやっても耳を傾けてもらえない。どんなにゲート前に座り込んでも、一切無視して工事をどんどん進める。
選挙で圧勝して民意を示しても無視される。残された最後の手段は、暴力に訴えてでも、アメリカ国民に精神的な打撃を与えて、沖縄に軍隊を駐留させたらこんなことが起こりうるんだということを、知らしめることじゃないか」
最後の、そして極限の抵抗手段としての暴力。かつて目取真氏は、そんな行動に出た男を描く掌編『希望』を発表した。
辺見氏(註:ジャーナリスト 辺見庸)は「文芸史上でも思想史上でも衝撃的な作品」と評価し、こう応じる。
「僕の中では非常に不規則な表現になるけれども、自分の中にああいう人間を抱えていると思うわけです。暗黙の共感です」
もちろん、目取真氏は暴力を扇動するわけでも、肯定するわけでもない。「それは決して、状況の好転をもたらさない」「そんな人間を出さない、出したくないからこそ、『希望』という作品を書いた」”(p219-220)
の記載に、
(広く現実で起きていることに関して)我々、国民側の無関心、無気力ぶりに、青木理さんから「これでいいんですか?目を覚ましましょう」のメッセージを発信されたように受け止めました。