野村監督こと野村克也さんが、本当は書きたくなかったけれど伝えたかった二十一の思い:『野村克也からの手紙 野球と人生がわかる二十一通』読了

野村監督こと、野村克也さんの新著『野村克也からの手紙 野球と人生がわかる二十一通』を読了。

先日開催された「サイン本お渡し会」で入手していたもの。

三省堂書店 神保町本店で開催された『野村克也からの手紙 野球と人生がわかる二十一通』サイン本お渡し会

 リーダーへ 助言の手紙

 挑戦者へ 激励の手紙

 個性派へ 忠告の手紙

 恩師、友へ 学んだことへのお礼の手紙

 家族へ 愛の手紙

 遺言

と章立てされ、

教え子といえる宮本慎也 東京ヤクルトスワローズヘッドコーチ、古田敦也さん、田中将大選手(ニューヨーク・ヤンキーズ)、リーグは違えどライバルとしてしのぎを削った長嶋茂雄さん、王貞治さんへの思いが手紙という形でしたためられています。

手紙に載せられた思い

読み物として面白かったのは「個性派へ」で

門田博光様

” とにかく頑固で変わり者。しかし、その性格ゆえに、お前はあれだけの選手になったのだろうな。

体の大きな選手に負けたくない気持ちがモチベーションになり、バットスイングに、体の鍛錬にと努力した。

・・中略・・

お前の努力が、並大抵のものでなかったことは、俺も認めている。努力の上をいく努力。言葉は悪いが、『クソ努力』だったと思う。

・・中略・・

しかし、『南海の三悪人』(註:江夏豊、江本孟紀、門田博光、)皆に言いたいのだが、お前たち3人は、本当にもったいない。

現役時代、努力や勉強を重ねて一流選手になったが、その性格ゆえ指導者になれず、自分の経験や技術を後進に伝えられなかった。

選手としての成長はあっても、リーダーとしての自覚や成長を欠いていたためだと思う。”(p.94/95)

或いは、

江夏豊様

” 俺が沙知代の問題で監督を解任されたとき、俺の家までやってきて、「南海をやめたい」と言ってくれた。

「これほどの功労者である監督をクビにするなんて、この球団は信用できない」と。あの言葉はうれしかった。

とはいえ、お前にはまだ野球を続けてほしかった。

「『やめる』ということは、野球ができなくなるということだぞ」と俺は言ったが、お前の決意は固かった。

そこで広島の古葉(竹識=監督)に電話し、「アイツは間違いなく使えるから、取ってくれ」と頼んだら、広島との間で金銭トレードが成立した。”(p103)

といった話しでは扱い難かった選手たちとの苦労話での裏側での人情を感じました。

サイン本に書かれてあったサイン(&落款)

また、一番感情を揺さぶられたのは、「家族へ」で故沙知代夫人へ宛てた手紙で、

南海ホークスから解雇された後、

” 俺は京都の田舎育ちで、大阪のチームに入団した。東京なんか遠征ぐらいでしか行ったことがなく、東京で暮らすこと自体、不安だった。

しかも、「野村ー野球=0」を公言する俺が、球団からクビを宣告され、野球を奪われてしまったのだ。

職もなく、すべてすっからかん。何もかも失ってしまったような気持ちになっていた。人生のどん底だったと言っていい。

車中、俺たちは黙ったままだった。何より子どもたちの行く末が心配だった。

「これから何をして生きていこうか」

俺は思わずつぶやいた。するとお前はあっけらかんとした声で、こう言った。

「なんとかなるわよ」

それが車での、第一声であった。あれほど心強く、勇気づけられた言葉は、今までの人生ではほかにない。

・・中略・・

「なんとかなるわよ」がお前の人生観だった。いい言葉だと思う。お前の言う通り、人生、なんとかなるものだ。

あれから俺はさらに3年現役生活を続け、評論家、監督・・・と80歳をゆうに超えた今になっても、野球界で生きている。

もちろん、それにはお前の力が大きかった。俺に評論家の草柳大蔵先生ら、人生の「師」と言える人たちを紹介してくれた。

野球一筋で無学だった俺に、そのあとの人生の下地を作ってくれた。”(p197-198)

手紙の良さ伝わる交流録

と、全体を振り返ると、ここまで赤裸々に・・ と感じられるほど、宛てた人物への思いが綴られており、

イベント時、(野村監督は)

「(読んで)ためになる本ではないですが、面白く読んで頂ければと思います。」

と、野村監督(野村克也さん)らしく自虐的に本書を紹介されていたものの

テクノロジー発展の傍、近年急激に表現手段として廃れていった手紙の良さに

野村監督(野村克也さん)のキャラクターが相待って、興味深く一通一通読み上げていくことができ、それぞれの人たちとの交流の模様、思いのほどを楽しめました。


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