幻冬舎 代表取締役社長 見城徹さんの『読者という荒野』を読了。
先日アップロードした中間記後=第3章以降の
第3章(極端になれ!ミドルは何も生み出さない)及び第4章(編集者という病い)は
” 文芸編集者になり、僕にはどうしても仕事をしたい作家がいた。学生時代から愛読してきた五木寛之と石原慎太郎である。そして彼らと仕事をするために、僕は1日24時間働いた。”(p98)
という上記の作家を含む、作家たちと出逢うまで、交流の日々に、作品の見どころに・・
憧れの石原慎太郎さんに差し出された一通の手紙から面会が叶い
” この機会を逃したら、もう二度と会えないかもしれない。ここが勝負だ。こんなときはいろいろなことを言っても駄目だと思い、僕は最終兵器を用意していた。
『太陽の季節』と『処刑の部屋』を一言一句、最後の1行に至るまで暗唱できるようにしていたのだ。”(p113-114)
の件(くだり)は、色濃く見城徹さんが示されていたと思います。
第5章(旅に出て外部に晒され、恋に堕ちて他者を知る)は、
” 本書を通じて、読書の意味とは、自分一人の人生では経験できないことを味わい自分の問題として据え直し、他者への想像力を磨く点にあると述べてきた。
実は、他者への想像力という点では、旅と恋愛も自分を大きく成長させてくれる。読書、旅、恋愛、この三つをやりきることで、人生を豊かに生きることができる。”(p168)
という前段を受けて、沢木耕太郎さんの『深夜特急』に見られる旅の醍醐味に、
” 旅と同じくらい人間を成長させるのは恋愛だ。恋愛ほど、他者への想像力を磨くものはない。”(p185)
とのお考えから
” 僕は恋愛小説こそが、読書の王道だと考えている。恋愛小説には、人間の感情のすべてが含まれているかだ。
人を想う気持ちをそうだし、その過程で見つめざるを得ないエゴイズムもそうだ。”(p188)
と恋愛小説への誘(いざな)いに、章の最後は。
” 42歳で幻冬舎を立ち上げたときには、不安と戦っていた。誰もが僕の挑戦を「失敗するだろう」と言った。
むしろそれは、「失敗してほしい」という嫉妬から来るものかもしれない。
そのとき僕は、編集者としてではなく、一人の人間として無性に本が読みたくなった。孤独と不安を読書によって埋めようとしていた。
困難に陥ったときには、人は藁にもすがろうとする。そのときに心のよすがをどこから得るかといえば、やはり読書しかない。”
・・中略・・
一心不乱に本を読み、自分の情念に耳を澄ます時期は、必ず自分の財産になる。
だから、手軽に情報が取れるようになっただけになおさら、意識して読書の時間を捻出すべきだと僕は考えている。”(p192)
と本書が書き上げられた根源的な主張が書かれています。
最終の第6章(血を血で洗う読書という荒野を突き進め)は、映画『ベルリン・天使の詩』を参考に、
” 読書によって他者への想像力や生きるための教養を磨き、まずは認識者になる。
つまり世の中の事象と原理を理解する。その上で、覚悟を決めて実践者になる。
いったん実践者になれば、暗闇のなかでジャンプし、圧倒的な努力を以て、目の前の現実を生き切るのみだ。”(p220)
と、見城徹さんの死生観ともいうべき内容が綴られています。
「読書」で得られる自分軸 と未来
引用文内に登場する「圧倒的努力」が、見城徹さんを実現した原動力であったと思いますが、
それを導くための圧倒的なまでの読書(選択、量、術)が記されていて、その「濃さ」が読後、重量感を伴ってやってきます。
読書の効用について説かれた本では藤原和博さんの『本を読む人だけが手にするもの』や
神田昌典先生の『バカになるほど、本を読め!』
といった著作が思い出されましたが、
本書は読書を切り口とした見城徹さんのライフストーリーと云える著作となっています。
読書によって、自分自身と繋がる力を得られることの重要性のほか、紹介されている様々な作品から質を伴った読書体験を得られる手引書という役割も果たしてくれる一冊であると思います。