日本プロ野球界(NPB)で最多の通算3,085安打の記録を持つ
張本勲さんの『新イチロー論 いまを超えていく力』を読了。
もともと先月(2019年12月)に参加した
「日本プロ野球OBクラブ25周年記念 ファンとの集い」に張本勲さんのお名前が参加予定に入っていたことから
サイン用に仕込んでおいたもの。当日は何より江夏豊さんに、次に田淵幸一さんに精力を傾けていたので
張本勲さんの動向まで追いかけられていませんでしたが、後日談として
⬆︎のような顛末であったそうな、、。
傑出した打撃を残したプロがみたイチロー
本書は、
“本書を執筆した動機は、先人から私たちが引き継いできた日本プロ野球を、次世代にバトンタッチする責務があると考えるからだ。
イチローを語ることは、日本プロ野球界の本来のあり方を語ることなのだ。”(p199)
というお考えに沿って、(本の)前半は
” 私がイチローを「幸せな男」と呼ぶのは、単に大歓声や人気のことを言うのではない。
引退を報じるスポーツ紙に「ありがとうイチロー」の文字を見たからだ。
「ありがとう」は感謝であり賛辞である。称賛の言葉に包まれて引退していったプロ野球選手はこれまで何人もいるが、
「ありがとう」と感謝の言葉で送られた選手は私の知る限りイチローただ一人である。”(p13)
と、2019年3月のイチロー選手の現役引退を契機に、イチローさんの精神的に、技術的に秀でた面の数々の言及に、
後半は張本勲さんの現役時代、コンプレックスにハンデを克服して、主に打撃面で傑出した成績を叩き出した要因が振り返られています。
選手イチローの原型
イチローさんについては、何となく耳にしていた
” 小学校3年生から中学3年生までの6年間に名古屋空港の近くにあるバッティングセンターに毎日通い続けた。それも1週間に一度休むといったレベルではない。363日通い詰めたそうだ。
あとの2日は、バッティングセンターが正月休みだったというのだ。
1回行くだけで、イチローは最低5ゲーム(1ゲーム25球)。平均して7〜8ゲームをこなしたという。
雨が降ろうと雪が降ろうと、6年間このノルマは変わらなかった。ちなみに1ゲーム200円なので、1カ月4〜5万円を父・宣之さんは投資したことになる。
この当時偉大であったのは、父である宣之さんだ。漫然とイチローが打っているのを眺めていたわけではない。
イチローが徐々にモチベーションを高めていくために、マシーンのスピードを調整していったのだという。
小学校3、4年生のときは、100km、5年生で、110km、6年生の終わりには120km・・・といった具合にスピードを上げていった。
だが、マシーンの限界は120kmだったので、宣之さんはバッティングセンターの責任者に「もっと速い球が出せないだろうか」と相談し、
費用はセンター持ちで「イチロー専用マシーン」を作ってもらったという。これで130kmまでスピードが上がった。
さらに、それでもイチローはモノ足りない、という状況になり、ついにバッターボックスよりも2〜3m前に出て打つようになったというからすごい。
この6年間でプロ級の投手が投げる150kmのスピードに対応出来る打ち方をマスターしたのだ。
しかも、この「バッティングセンター通い」は「夜のデザート」に過ぎなかったのである。”(p59-60)
と文は更に続いていきますが、
イチローさんの凄みは考える力に、環境に応じて(バッティングフォームを含め)柔軟に変化適応していったことはさることながら
技術面での原型に、継続する力が、幼少期の環境によって確立されていったことが、後の数々の偉業につながったことも否定出来ないことでしょう。
通算最多安打を導いたハングリーさと覚悟と
張本勲さんについては、とにかく
” 私の「喝!」のホンネは、「もったいない」という思いだけである。この部分にすべてが込められている。
「せっかくいい条件下で仕事が出来るようになったのに、どうしてその恵まれた環境を最大限に利用しようとしないんだ。ああ、もったいない」ということである。”(p80)
と代名詞にもなっている喝!、あっぱれに絡めて、張本勲さんの現役時代と当世の隔絶した環境から、壮絶なる覚悟で現役時代、プロの世界に対峙していたことに、残した記録の数々への自負が文面から強く滲み出ています。
イチローたる所以
本の最後には、「イチロー引退会見・完全収録!」とあり、質問者の氏名等は割愛されていますが、
” やりたいならやってみればいい。出来ると思うから行く、挑戦するのではなくて、やりたいと思えば挑戦すればいい。
その時に、まあどんな結果が出ようとも、後悔はないと思うんですよね。”(p233)
など、引退会見時の軽妙ながら深いやり取りが文字起こしされており、資料的な価値も感じられる構成となっています。