「小沢一郎」カテゴリーアーカイブ

佐藤優さん、石川知裕さんから学んだ 対「逆境」:『逆境を乗り越える技術』読了

先週、開催された元外務省の佐藤優さんと前衆議院議員の石川知裕さんのトークショー&サイン会の対象書籍であった『逆境を乗り越える技術』を読了。

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今、大切、尊きは「与える力」

巻末のエピローグで佐藤優さんが本書を・・

” 読者には、具体的に目に見える、手に触れる範囲にいる家族、親族、友人、同僚が逆境にあるとき、援助できる人になって欲しい。実は、そのような「与える力」は、社会における読者の地位を確実に高める。そのことが、読者の生活、キャリアの双方を豊かにすることは間違いない。” (p269)

と読者へ向け明確なメッセージを発せられています。

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佐藤優さん、石川知裕さんから学んだ「逆境」への備え

元外務省の役人で、鈴木宗男元代議士との職務上の事で逮捕された際はラスプーチンの異名も伝えられた佐藤優さんと

小沢一郎代議士の書生からスタートして、衆議院議員になられ、政治献金の問題で議員辞職に追い込まれた石川知裕さんが

共著で『逆境を乗り越える技術』を上梓された記念のトークショーに行ってきました。

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「世界の中の日本を考える」:小沢一郎代議士と慶大堀教授の対談

先月、出た政経フォーラムが個人で新鮮な感覚を得られたので、その勢い?のまま、小沢代議士登壇の「世界の中の日本を考える」に行ってきました。

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>>  頭にある思いは、いつか具現化する:小沢一郎政経フォーラム その弐 <<

前回は、懇親会付きの双方向とも言える催しでしたが、今回は慶応義塾大学の堀教授との対談。

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カメラ席背後に鎮座IMG_5571

憲法問題に国連との交わり方など約70分の質疑応答に近い形式で進められた対談の話題は多岐に及びましたが、影響度の高いところでは・・

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頭にある思いは、いつか具現化する:小沢一郎政経フォーラム その弐

前日 >> ジョン万次郎の生涯:小沢一郎政経フォーラム その壱 <<  の続き・・

講演会 ⇒ 懇親会

当初、11:00〜12:00の講演会の予定が30分ほど押して、第二部となる懇親会場へ隣の部屋に移動。

ここで、会議のため一旦中座されていた小沢代議士が戻られて、挨拶。

そして、講演を終わられて間もない中濱京さんの乾杯のご発声から・・

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ジョン万次郎の生涯:小沢一郎政経フォーラム その壱

 

小沢一郎代議士と私

政治の事はよく分からずとも、TVのニュース等から流れてくるいわゆる政局の話題は、人間の一番ギラギラした部分が出ている感じで、興味深く見ている時間が長かったですが

その中で、小沢一郎代議士は史上最年少で自民党幹事長に就任してから、その存在を知って・・ 自民党を飛び出して、非自民連立政権を作って

・・ いろいろあって(中略)・・

今度は民主党で政権交代の立役者となり、

・・また、いろいろあって(中略)・・

そんな履歴から、豪腕と称される力量や入れ替わりの激しい政治の世界で存在感を保たれていて、「一体、どんな人なんだろう」と漠然とした興味を長く持っていて

小沢さんについて書かれた本を10冊前後読んでいる筈ですが、先週、耳寄りな情報をキャッチし、遂に直にお会い出来る機会があり行ってきました。

来たからには、やっぱり?ポールポジション

開演が迫った頃の入場で、結構な人の入りで後方の席を覚悟したものの中に入れば見事に最前列中央にまとまった空きがあり、ほぼ真ん真ん中をゲット。真ん真ん中でも良かったですが、ちょっと遠慮が(笑)

野党になっても忙しい状況には変わりがないようで、ほぼ定刻に始まり、まず、小沢代議士が登壇。

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最前列中央で、この距離感。

外交関係で、中国と上手く行っていないのは周知の事実ながら、実はアメリカとも上手く行っておらず、図らずも来日時期が重なったオバマ大統領の来日時の予定からその辺が読み解けるとの事。

その辺の話題から30分強の講演で、次がメインとされていたジョン万次郎の直系5代目の中濱京さんの講演。

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ジョン万次郎直系五代目との中濱京さん

ジョン万次郎の生き様が熱かった

9歳で父が他界して幼くして家計を支える事になったジョン万次郎(当時、中濱 萬次郎)14歳で漁に出た際、黒潮に流され、無人島に流される事に。

この時に幸運であったのは、本来の黒潮の流れであったら無人島の行き着く地勢条件でなかったものの

潮の流れによって、九死に一生を得る事になったそうな。それでも無人島の生活を余儀なくされ、船舶は破壊され、大事な物資も流されしまった状況下で、実にその期間9ヶ月程度に及んだ。

再び訪れた奇跡

そんなある日、当初、立ち寄る予定のなかった米国籍の船舶が食料の確保を目論み島に接近。そこでジョン万次郎一行(総勢5名)を発見、救出。

そこから航路に沿って行き着いた先はハワイ。

しばしの滞在期間があったそうですが、ジョン万次郎の仕事ぶりに目が止まったホイットフィールド船長が、アメリカ本土への誘いをかけたところ、

ジョン万次郎はそれに応じ、他の4人はハワイに残る事に。(そのうちの2名はやがて帰国出来る事に)。

ジョン万次郎が行き着いた先はボストン(プリマスだったかな)。ホイットフィールド船長から惜しみい支援を受け、学校に教会に通う生活を送り、

教会に関しては当初の教会がジョン万次郎の来訪を拒否したため、受け入れ先に船長が改宗するほどの確固たる絆があったそうな。

学を身につけ、船乗りとしても地球を7周するほどの航海に出て、1回は乗り合わせていた船長の気が触れてしまい、代理を決める際に副船長に選出されるほどの溶け込みぶりであったとの事。

深まる祖国への思い

但し、母への思い、郷土(日本)への思いから、帰国するに十分な稼ぎを得られず、断腸の思いでホイットフィールド船長と別れ、

仕事の場を一転、西海岸のサンフランシスコで金鉱掘りに就き、帰国の費用を捻出。

十分な資金を稼ぎ、帰国が叶う状況に。もっとも、当時の日本は鎖国されており、アメリカの帰国が知られれば死刑も有り得た状況で、計画は入念に行われたとの事。

遂に帰国

予定通りに入国を果たしたものの、郷里の高知に戻る道中、長崎の9ヶ月間など、相当の足止めがあった。

晴れて郷里の土を踏んだ時には、息子は死んだものと思い、墓が建てられていたものの、帰国の強い動機の一つであった母との面会は遂げられた。

そこからアメリカの内情に精通する者として、江戸へ出向き幕府の聴取に応じるなど、後にペリー提督が来港して鎖国が解かれる状況の土壌作りに貢献。

もっとも条約締結時はスパイ行為等の疑いをかけられ、その場に立ち会う事は許されなかった。

世代間に伝承されているDNA

71で生涯を閉じられた後、中濱家とホイットフィールド家の交流は続き、今は6代目まで来ているそうな。

その間は日米開戦の前年にホイットフィールド家の来日があり、そこには開戦を阻止する狙いが込められるなど、その繋がりは民間を超えた次元に。

活動は両家に留まらず、毎年、日米で広く参加者を募られて行われているようで、今年は9月にサンディエゴで開催。

予定外の無人島来訪で繋がった縁が、1世紀以上に渡って日米両国の友好に脈打ち続ける事になった。

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足摺岬にあるジョン万次郎の銅像

歴史に名を残す人に、一角有り

当初の期待になかったものの、小沢代議士会いたさに来たのがキッカケにして、名前だけ知っていたジョン万次郎の生涯を知るに至り、一人の男の熱い生き様を学ばされました。

と、ここまでで長くなってしまったので、続きは後日。