成るか、大物との周波数合わせ・・
小沢一郎衆議院議員の政経フォーラムに参加。4月に続いて2度目。
>> ジョン万次郎の生涯:小沢一郎政経フォーラム その壱 <<
>> 頭にある思いは、いつか具現化する:小沢一郎政経フォーラム その弐 <<
招待状が届いた際、「前も出たし、今回はいいかなぁ」なんて思ったものの
池松耕次さんに「(成功したければ)成功した人と過ごす時間を増やせ」との助言が思い起こされ、出掛けていった次第。
小沢一郎衆議院議員の政経フォーラムに参加。4月に続いて2度目。
>> ジョン万次郎の生涯:小沢一郎政経フォーラム その壱 <<
>> 頭にある思いは、いつか具現化する:小沢一郎政経フォーラム その弐 <<
招待状が届いた際、「前も出たし、今回はいいかなぁ」なんて思ったものの
池松耕次さんに「(成功したければ)成功した人と過ごす時間を増やせ」との助言が思い起こされ、出掛けていった次第。
先日、読了した『逆境を乗り越える技術』の感想を石川知裕前衆議院議員にFacebookのメッセージ機能を介して送ったところ返信を頂きました。
感想というよりは、実態としては石川知裕さんへの激励的意味合い。というのは本に・・
先週、開催された元外務省の佐藤優さんと前衆議院議員の石川知裕さんのトークショー&サイン会の対象書籍であった『逆境を乗り越える技術』を読了。
>> 佐藤優さん、石川知裕さんから学んだ「逆境」への備え <<
巻末のエピローグで佐藤優さんが本書を・・
” 読者には、具体的に目に見える、手に触れる範囲にいる家族、親族、友人、同僚が逆境にあるとき、援助できる人になって欲しい。実は、そのような「与える力」は、社会における読者の地位を確実に高める。そのことが、読者の生活、キャリアの双方を豊かにすることは間違いない。” (p269)
と読者へ向け明確なメッセージを発せられています。
元外務省の役人で、鈴木宗男元代議士との職務上の事で逮捕された際はラスプーチンの異名も伝えられた佐藤優さんと
小沢一郎代議士の書生からスタートして、衆議院議員になられ、政治献金の問題で議員辞職に追い込まれた石川知裕さんが
共著で『逆境を乗り越える技術』を上梓された記念のトークショーに行ってきました。
先月、出た政経フォーラムが個人で新鮮な感覚を得られたので、その勢い?のまま、小沢代議士登壇の「世界の中の日本を考える」に行ってきました。
>> ジョン万次郎の生涯:小沢一郎政経フォーラム その壱 <<
>> 頭にある思いは、いつか具現化する:小沢一郎政経フォーラム その弐 <<
前回は、懇親会付きの双方向とも言える催しでしたが、今回は慶応義塾大学の堀教授との対談。
憲法問題に国連との交わり方など約70分の質疑応答に近い形式で進められた対談の話題は多岐に及びましたが、影響度の高いところでは・・
前日 >> ジョン万次郎の生涯:小沢一郎政経フォーラム その壱 << の続き・・
当初、11:00〜12:00の講演会の予定が30分ほど押して、第二部となる懇親会場へ隣の部屋に移動。
ここで、会議のため一旦中座されていた小沢代議士が戻られて、挨拶。
そして、講演を終わられて間もない中濱京さんの乾杯のご発声から・・
政治の事はよく分からずとも、TVのニュース等から流れてくるいわゆる政局の話題は、人間の一番ギラギラした部分が出ている感じで、興味深く見ている時間が長かったですが
その中で、小沢一郎代議士は史上最年少で自民党幹事長に就任してから、その存在を知って・・ 自民党を飛び出して、非自民連立政権を作って
・・ いろいろあって(中略)・・
今度は民主党で政権交代の立役者となり、
・・また、いろいろあって(中略)・・
そんな履歴から、豪腕と称される力量や入れ替わりの激しい政治の世界で存在感を保たれていて、「一体、どんな人なんだろう」と漠然とした興味を長く持っていて
小沢さんについて書かれた本を10冊前後読んでいる筈ですが、先週、耳寄りな情報をキャッチし、遂に直にお会い出来る機会があり行ってきました。
開演が迫った頃の入場で、結構な人の入りで後方の席を覚悟したものの中に入れば見事に最前列中央にまとまった空きがあり、ほぼ真ん真ん中をゲット。真ん真ん中でも良かったですが、ちょっと遠慮が(笑)
野党になっても忙しい状況には変わりがないようで、ほぼ定刻に始まり、まず、小沢代議士が登壇。
外交関係で、中国と上手く行っていないのは周知の事実ながら、実はアメリカとも上手く行っておらず、図らずも来日時期が重なったオバマ大統領の来日時の予定からその辺が読み解けるとの事。
その辺の話題から30分強の講演で、次がメインとされていたジョン万次郎の直系5代目の中濱京さんの講演。
9歳で父が他界して幼くして家計を支える事になったジョン万次郎(当時、中濱 萬次郎)14歳で漁に出た際、黒潮に流され、無人島に流される事に。
この時に幸運であったのは、本来の黒潮の流れであったら無人島の行き着く地勢条件でなかったものの
潮の流れによって、九死に一生を得る事になったそうな。それでも無人島の生活を余儀なくされ、船舶は破壊され、大事な物資も流されしまった状況下で、実にその期間9ヶ月程度に及んだ。
そんなある日、当初、立ち寄る予定のなかった米国籍の船舶が食料の確保を目論み島に接近。そこでジョン万次郎一行(総勢5名)を発見、救出。
そこから航路に沿って行き着いた先はハワイ。
しばしの滞在期間があったそうですが、ジョン万次郎の仕事ぶりに目が止まったホイットフィールド船長が、アメリカ本土への誘いをかけたところ、
ジョン万次郎はそれに応じ、他の4人はハワイに残る事に。(そのうちの2名はやがて帰国出来る事に)。
ジョン万次郎が行き着いた先はボストン(プリマスだったかな)。ホイットフィールド船長から惜しみい支援を受け、学校に教会に通う生活を送り、
教会に関しては当初の教会がジョン万次郎の来訪を拒否したため、受け入れ先に船長が改宗するほどの確固たる絆があったそうな。
学を身につけ、船乗りとしても地球を7周するほどの航海に出て、1回は乗り合わせていた船長の気が触れてしまい、代理を決める際に副船長に選出されるほどの溶け込みぶりであったとの事。
但し、母への思い、郷土(日本)への思いから、帰国するに十分な稼ぎを得られず、断腸の思いでホイットフィールド船長と別れ、
仕事の場を一転、西海岸のサンフランシスコで金鉱掘りに就き、帰国の費用を捻出。
十分な資金を稼ぎ、帰国が叶う状況に。もっとも、当時の日本は鎖国されており、アメリカの帰国が知られれば死刑も有り得た状況で、計画は入念に行われたとの事。
予定通りに入国を果たしたものの、郷里の高知に戻る道中、長崎の9ヶ月間など、相当の足止めがあった。
晴れて郷里の土を踏んだ時には、息子は死んだものと思い、墓が建てられていたものの、帰国の強い動機の一つであった母との面会は遂げられた。
そこからアメリカの内情に精通する者として、江戸へ出向き幕府の聴取に応じるなど、後にペリー提督が来港して鎖国が解かれる状況の土壌作りに貢献。
もっとも条約締結時はスパイ行為等の疑いをかけられ、その場に立ち会う事は許されなかった。
71で生涯を閉じられた後、中濱家とホイットフィールド家の交流は続き、今は6代目まで来ているそうな。
その間は日米開戦の前年にホイットフィールド家の来日があり、そこには開戦を阻止する狙いが込められるなど、その繋がりは民間を超えた次元に。
活動は両家に留まらず、毎年、日米で広く参加者を募られて行われているようで、今年は9月にサンディエゴで開催。
予定外の無人島来訪で繋がった縁が、1世紀以上に渡って日米両国の友好に脈打ち続ける事になった。
当初の期待になかったものの、小沢代議士会いたさに来たのがキッカケにして、名前だけ知っていたジョン万次郎の生涯を知るに至り、一人の男の熱い生き様を学ばされました。
と、ここまでで長くなってしまったので、続きは後日。
「時間的に行けちゃうなぁ」「小泉さんの話も面白そうだな」と、先々週の街頭演説に続いて、今回は雪が舞う中、細川護煕都知事候補の個人演説会に行ってきました。
会場のメルパルクホール、2階の開放はありませんでしたが、時間を追う毎に1階席は90%以上の席は埋まった感じ。
1~2列目が来賓席で、TVで見た事のある方のお顔もちらほら。
まず、先日の有楽町で街頭演説に立たれた南相馬市長の応援演説の映像が流され・・
「オリッピックは良いが、建設作業員がオリンピックの方が儲かるからと建設会社の方針で、東京へ戻ってしまっている」との話しや「心が豊かになれば命を守れる」等、心の叫びとは、こういう事を言うのでしょう。
言葉で説明すると陳腐になってしまうので、8分程の尺である事もあり、リンク先をご覧になられる事を強くお勧めします。
いきなりクライマックスが訪れたかの迫力でした。
続いて来賓で瀬戸内寂聴さんが、壇上に立たれ、志を抱くに事に年齢は関係ない、ライフワークに取り組む事の重要性など。
20分強の演説時間でしたが、椅子に座られる事無く、強い決意が伝わってきました。
と、本来はここで細川護熙候補と小泉純一郎元首相の出番となるはずが、降雪の影響か遅れているとの事・・
急遽、細川佳代子夫人にマイクが渡り、マスコミに伝わる姿とは違う候補者の実像を。
世間一般では、お殿様で何不自由なく育ったイメージも、実際は・・
中学時代は退学処分を受けるなど、荒れた学生生活。
一旦、新聞社に就職するも、家系からか政治の世界への思いが強くなり、叔父、父に切り出すも、猛反対され、退職金を全財産として、東京から独り身で熊本へ。
地盤、看板もない状況下、最初の選挙は落選。この時から、絶えず借金のご苦労は堪えなかったそうで・・
次の選挙で参議院の全国で当選し、結婚するも披露宴は夫人は白のスーツ、細川護熙さんは背広で、神主さんに支払う1万円程度で簡素に済ませたそうな。
細川護熙さん、次の選挙は熊本選挙区から当選したいとの思いから連日、佳代子夫人は一日百軒を目処にした戸別訪問。
選挙が近付くにつれ、熊本県知事選挙も迫っていたそうな。当時の県知事が前任者の四選に異を唱えて当選したにもかかわらず
当時の知事が四選を目指して出馬する事に異を唱えて、佳代子夫人が知らぬ間に突然の知事選出馬表明。
ここから様々な前哨戦が繰り広げられたようで、県議連の会長だかが間に入る形で、細川護熙は県知事に、当時の知事は参議院になられる形で決着したそう。
そして県知事時代は着実に実績を積み重ねられたようですが、権力の座に長く留まっては、どんなにクリーンを心掛けても腐敗は免れないとして、10年の声を聞かず辞任。
一旦、ここで表舞台から身を引いたそうですが、中央から地方分権に関する委員会のメンバーに召集され、
県知事時代の体験(バス停を少しの距離移動させるだけでも約半年、中央と折衝を強いられた事など)を活かして、答申をまとめ上げたものの、国会で全て否決。
この事態を憂慮して、日本新党を立ち上げる事を表明・・
(ここで、細川さん、小泉さん登場)
話しは中断される形で終わりましたが、マスコミを介して耳にしていたお殿様像と全く異なる内容でした。
ご夫人の上記お召し物、25年前に購入したセール品であるそうな・・
・・で、ご本人がダウンジャケットを着たまま、壇上に上がられ、政治の世界に戻ってくる事は本心でなかったものの
国政の在り様に強い違和感を感じられ、順風満杯であった芸術家?(陶芸家、襖絵師として順風満杯な余生を送られていたそうな)生活から立ち上がれたとの事。
素顔は、人前に出る事が嫌いで、選挙カーを見るなどすると寒気を覚えるそうな。
和やかながら、国に対する愛情の裏返しが伝わる演説。
2週間前の街頭演説で伝わった大丈夫?といった頼りなさのようなものは払拭された様子で、感じが戻られたご様子。
会場が半分以上埋まったのは、恐らく自分と同じく、小泉元首相の話し聞きたさであったと思いますが、
ご自身が首相在任中などに原発政策を推進したものの、東日本大震災を契機に、改めて原子力発電について勉強され直したとの事。
その中には具体的に、フィンランドへ財界の方々と最終処分場を見学するなど、視察に行かれ、ご自身なりの結論を出されたと。
フィンランドには原子力発電施設が四基あるそうですが、見学に訪れた場所は地下400mの2km四方の広さ。
漏水の問題等で、本格稼働には至っていないようですが、稼働しても2基分の廃棄物処理に止まるとの事で
残り2基の処分施設については、場所をはじめまったく目処が立っていないとの事。
日本では54基(だったかな)あるそうですが、事故が起きる前から最終処分場名乗り出る自治体がいない中、
到底、原発事故が起こった後で施設受け入れを表明する自治体の挙手は期待出来ないであろうとの指摘。
「脱原発を表明した上で、国全体で廃棄物処理の議論をするのならともかく、今までの経緯を踏まえると、とてもじゃないが再稼働を進める事は無責任だ」との事が、演説の骨子でした。
「日本の技術力の高さを持ってすれば、従来、原子力に頼ってきた部分を自然再生エネルギーで代替する事は十分可能であろう」との見通し。
過ちは改むるに憚ること勿れの思いで、今回、細川さんの決意に打たれて、応援を奮い立ち、実現可能な脱原発の社会創りは夢のある仕事だと力説されて、軽い熱狂に包まれ演説終了。
開演から約2時間半経過して閉会となりましたが、本来、選挙権を行使するにあたり、
全候補者又は主要候補者に対して、直に触れる機会が大事なんであろうと思いました。
投票に行って「裏切られた」と感じる事もしばし、ある種、諦めのような感覚も持っていて、「何となく(投票してしまう)」といった事になりがちですが、
投票日までにマスコミの報道に頼ることなく、可能な限り、自分から候補者に近付いて行く事の重要性は気付かされました。