小説家 朝井リョウさんの作家生活十周年記念書き下ろし作品『正欲』を読了。
本作発売により朝井リョウさんの名を知ることとなり、発売となった3月下旬頃から、訪れる書店の何店舗もで「これでもか」と言わんばかりの一等地を陣取る陳列で
注目度の高さを知らしめられ、「どんな作品だろう・・」とレビューを参照するも
「後味の悪さ」といったニュアンスを感じ取り、距離を置いていたものの、一度書店から消えた
サイン本再入荷のタイミングで「(これを機に)一回読んでみようかな」の思いに切り替わり、手が伸びていた経緯。
多様性が叫ばれる現実の一方で
口外出来ぬ悩み(性癖)を抱えた男女に、引きこもり児童と居を共にする検事家族に、
ストーリーはそれぞれの場所で進行してゆき、やがてその悩みが結末で舞台を一つにしていくという・・ 大雑把な流れですが、
焦点を当てられたのは、
” 他者が登場しない人生は、自分が生きていくためだけに生きていく時間は、本当は虚しい。その漆黒の虚しさを、誰かにわかってもらおうなんて思わない。
だけど目に映る全員に説いて回りたい。私はあんたが想像もできないような人生を歩んでるんだって叫び散らして、安易に手を差し伸べてきた人間から順に殺してやりたい。”(p187)
に、
” マジョリティというのは何かしら信念がある集団ではないのだと感じる。マジョリティ側に生まれ落ちたゆえ自分自身と向き合う機会は少なく、ただ自分がマジョリティであるということが唯一のアイデンティティとなる。
そう考えると、特に信念がない人ほど、「自分が正しいと思う形に他人を正そうとする行為」に行き着くというのは、むしろ自然の摂理なのかもしれない。”(p223)
或いは
” まとも。普通。一般的。常識的。自分はそちら側にいると思っている人はどうして、対岸にいると判断した人の生きる道を狭めようとするのだろうか。
多数の人間がいる岸にいるということ自体が、その人にとっての最大の、そして唯一のアイデンティティだからだろうか。
だけど誰もが、昨日から見た対岸で目覚める可能性がある。まとも側にいた昨日の自分が禁じた項目に、今日の自分が苦しめられる可能性がある。”(p282)
と、マイノリティ(少数派)に属せざるを得なくなった人たちの心情で、
尋常ならざる深みを感じられる描写の数々に、注目を浴びるに足る筆力を感じました。
気づけば朝井リョウさんの他作への興味を掻き立てられ、読後感は確かに芳しくなかったものの・・