下記の記事は、Facebookページ「オーストラリア ライフスタイル&ビジネス研究所」8月29日付の記事を転記したものです。
オーストラリアの政党:自由党 ②
(前回のつづき)” この時点(1949年の選挙)から、自由党はメンジーズ首相を再選させ、彼を国民の代表、国際政治家と表象するための組織となった。失望した地方組織のリーダーは連邦規模での政策決定に自分たちが関与していないことに対する不満を抱いた。
他方、党の連邦組織は、地方支部が独自に資金を集めることや、連邦選挙の候補者を地方が選ぶこと、地方が地方規模の運動のみならず連邦規模の選挙運動を行うことなどに異を唱えていた。
自由党は地方党の協力を得て、継続的な物質的繁栄、反共主義、冷戦、そして労働党の分裂を利用して、1972年までの選挙に勝利した。
自由党はまた、この時期各州の政権も担当することが多かった。しかし、1966年のメンジーズの引退は連邦レベルでの党の全般的な衰退を象徴していた。
1949年以来の利益分配型の政治は機能不全を起こし、増大するヴェトナム戦争への不満も逆風となって、自由党はホイットラム指導下の労働党に大敗した。
1975年からは、マルコム・フレイザが自由党再建の指揮を執った。彼は財政の抑制と小さな政府、そして経済的合理主義を掲げた。それが1983年に敗北した後、自由党はさらに右傾化し、広範な民営化、労働運動の抑制、関税の撤廃もしくは減額を強く主張するようになった。
ところが、政権についた労働党がこれらの政策のうちいくつかを採用したことなどで自由党は混乱し、州レベルでも連邦レベルでも主導権を巡って党内抗争が起こった。
その結果、ニューサウスウェールズをのぞく各地で有権者の支持を失ったのである。同時に、中央組織を強化する数々の試みを時には行ったが、連邦議会のグループが政策決定に関する地方の影響を排除し続けたため、州支部は自らの権限を守ろうとした。
労働党政権の財政支出と不景気が、90年代はじめの自由党復活の手助けとなった。しかし、ヒューソンのもとで、自由党は1993年の「負けるはずのない」連邦選挙で、敗北した。
それはヒューソンが地方組織に無断で、一般消費税(GST)の導入を公約したからであった。その後数度の代表交代があり、1985年から1989年まで党首を務めたジョン・ハワードが再び党首となった。ハワード党首のもと、労働党長期政権に不満を持つ有権者の支持を得て、1996年に地滑り的勝利で政権を奪還した。
1940年代に自由党は、「すべてのオーストラリア人のための政党」であると宣言したにもかかわらず、主にアングロ・スコティッシュ系の、プロテスタントであり中産階級でもある人々のための政党であった。
1990年代のはじめには、自由党は「我々すべてのための」政党に転換し、自由党は中小事業者、家族的価値、「勤勉に働く者」を代表する政党であると主張し、カトリックやエスニック・グループのコミュニティーからも支援を求めるようになった。
現在、自由党の支持基盤は容易に定義できないものになっている。そのアイデンティティは、グローバリゼーションなどに直面する中でますます曖昧になっている。” (出典「オーストラリア辞典」)
日本に住んでいても、学者でもない限り稀にしか政党史について語れる人はいないと思い、上記概要も(私を含む)多くの人にとって無味乾燥な内容と思います・・
が、歴史を紐解く作業は国、そこで生活する人々は理解する上では重要なことと思い、引用長くなりましたがシェアしました。
方や政党が掲げるイデオロギーとは別途、オーストラリア人の気質として長期政権は望んでいないこと、また失業率が上がると政権交代要因になる、そうな。