寺島実郎さんに学ぶオーストラリア史 ①
“「黒いオーストラリア」という言い方があるが、オーストラリアは英国支配以前は先住民(アボリジニ)の住む地だった。
ヨーロッパの人々にとってオーストラリアの存在は一六世紀後半には知られていたが、一七世紀半ばにオランダ人のアベル・タスマンが現在の北部と西部の湾岸地域を巡る程度に留まっていた。
一七七〇年に英国人のジェームス・クックがシドニー南方のボタニー湾に到着して領有を宣言し、英国の関心が高まっていく。
英国からアメリカが独立した後、英国内で増えていた囚人をオーストラリアに送ることにしたのである。
オーストラリアが正式に英国の植民地となったのは、流刑囚七八〇名を含む一五〇〇名の乗組員からなるアーサー・フィリップの船団が到着した一七八八年のことだった。
日本の北海道開拓でも流刑囚を開拓民として使うことがあったが、以後「白いオーストラリア」として、流刑囚を中心にした入植者が続々と送り込まれることになる。
一八三〇年までは白人人口の七割が流刑者だったという。流刑囚の輸送は一八六八年まで続き、実に一六万人以上の囚人がこの地に入植したのである。”(出典『ユニオンジャックの矢』p93)
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に続いて、寺島実郎さんの『ユニオンジャックの矢』から
オーストラリアについて言及している箇所からの引用で、オーストラリア史についてまだ続けます。
オーストラリア ライフスタイル & ビジネス 研究所