先週末に、読み始め記をアップロードした
日本トップリーグ連携機構会長 川淵三郎さんの『キャプテン! 日本のスポーツ界を変えた男の全仕事』を読了。
その(読み始め)後、読み進めた
第3章 日本でもっとも注目される集団・日本代表を作る
第4章 「キャプテン」として臨んだ協会改革
第5章 2つ目のプロリーグを誕生させ、2度目のチェアマンに
第6章 見えないキャプテンマークと生きる
エピローグ スポーツを愛する一人として
芝のグラウンドがスポーツの未来を拓く
日本スポーツ界と川淵三郎の歩み
には、
” Jリーグはゼロから立ち上げたので、長い時間かけて準備をしていました。新しい考え方を皆さんに早く、深く理解してもらおうと、入念な準備を元に、理論武装で臨もうと考えました。読売新聞の渡辺恒雄主筆をはじめ、 Jリーグに向けられた様々な疑問、反発、不満に、ただ反論するのではなく、むしろPRの絶好機として自分たちの理念を徹底的に説明する。そういう戦略を取りました。
しかしバスケは、2005年のbjリーグ設立以降、10年近く混乱したまま解決の糸口され探れない。女子代表をリオ五輪予選に出場させるためにはどうしても15年6月までに制裁を解除しなければならず、残る時間は4ヵ月しかなった。”(p206)
と混迷を深め絶望的状況に陥っていた国内バスケットボール界にFIBA(国際バスケットボール連盟 当時)パトリック・バウマン事務総長から直に依頼を受け、
” この仕事をできるのは自分しかいない “(p205)
と立ち上がり、
” バスケットボールが分からないのに何の改革ができるんだ、といった空気は常にありました。でも川淵さんは、そんな声にたじろぐなんて一切なかった。
徹底的に過去の資料、別の競技データを読み込んで勉強しロジックを組み立てる。そして全身全霊で人の話を傾聴する。スポーツ界の将来を真剣に思い、誰よりもピュアに任務に取り組む。
その集中力には凄みさえ漂っている。だからこそ、もう1回言ってくれ、なんて聞き返したりしないで、やり切ってしまうのでしょう。”(p236)
バスケットボールに関しては畑違いながら建て直しを図っていった経緯に、その手腕はスポーツ界内だけでの評価にとどまらず、
” 何日か経って、猪瀬さんが菅義偉官房長官にこの話をしたところ、菅さんは猪瀬さんに対し、「辞任する人間が後継を決めるなんてとんでもない。筋が通らない」と反対したと、石原さんから連絡が入りました。”(p252)
と周囲に外堀を埋められた形で、もしや東京都知事に就任していたかもしれないという裏話しまで、盛りだくさん。
50過ぎ、左遷を転機に
350ページ弱のページ数で、タイトルに掲げられた「全仕事」というより川淵三郎さんが携われた仕事の断片を可能な限り凝縮した形(にせざるを得ない)ですが、
” 古河電工のサラリーマンとして本社に戻れると考えていた時、関連会社への出向を命じられ、51歳の左遷を味わった。
深い失望感の中、プロ化を目指していたJSL(日本サッカーリーグ)の総務主事の話が舞い込み、もう2度と関わらないだろうと思っていたサッカーこそ、自分が全精力を傾ける場所ではないのか、と人生で初めてビジョンを持てたからです。
あの挫折がなければ、山中さんが所長に指摘された回答と同じく、社内の出世競争だけを考え、理念やビジョンとは縁のない毎日を送っていたかもしれません。”(p269-270)
と50過ぎに大きな岐路に直面し、そこから舵を切り、ビジョンを描き、突き進んでいった一人の男性の生きざまが端的に描かれています。
その生きざまは、
” セリエCからBに昇格した人口5,000人の小さなクラブが、1万人収容のスタジアムを造ったアウェイチームのサポーターが多く来場していつも満員になった。
与論島の中学校が過去に鹿児島県大会で準優勝した実績もあり、与論島からJリーグ入りを目指すことも可能だ。そのためにサッカー場を造ればと、一方では100%不可能と思いながら、そんな風に話しました。”(p292)
と各所講演の依頼を受ける中で飛び出した発言が、後にゆいLANDとして実現していったという劇的展開が幾つも紹介され、打ち込んだ仕事のDNAが周囲に拡がっている現実(=スポーツ環境の整備〜拡大)も知ることができ、(読み手を限定しないと思いますが)特にスポーツ好きには勇気得られ背中を押される面もある著書であるものと、重み伴う爽快な読後感を得られました。