先日、読了記をアップロードした佐藤優さんの『ゼロからわかるキリスト教』で番外編といったところを以下に2つ。
書くこと、読める力
講義後、受講生に対して課題が提出されたことへの対応について
” レポートを提出した人の中でも、「自分はたいしたことを書けない」とか「文章を書いた経験がない」、「全問答えられない」というメモをつけた方もいる。全然かまいません。
とにかく一行でも二行でも書く。今回出してくれた人で、箇条書きで三行ずつ書いている答案もあったけれでも、それでいいんです。
まずは「書く訓練」と思ってくれていい。そうしたら何に役立つと思う?読む力がつくんです。読む力をつけるためには、書かなきゃいけない。
・・中略・・ 自主訓練として何からやればいいか?本当は要約をやればいいんだね。
例えばハーバーマスを読んで難しいから、どんなふうに要約したらいいかまだわかんない場合は、要約ではなくて、抜き書きすればいい。
・・中略・・ 四〇〇ページの本としたら、四〇〇字詰め原稿用紙にするとだいたい八○○枚くらいの分量なんです。
そうしたら抜き書きは二〇枚以内。全体の二%ぐらいが丁度いい。どんなに長くても四〇枚まで。原本の五%ぐらいまで。
「この本についてどこかで説明しないといけない」という状況を設定して、メモとして持っていけるのはこのくらいの量だと制限されている。
そのための抜き書きをつくるんだ、思えばいいです。パソコンにも打ち込んでもいいし、iPadでもいいし、ノートに手書きでもいい。
そういう時間がないとか面倒くさいということなら、コピーを取って切り貼りでスキャンしてもいいし、ハサミで切って、糊でスクラップブックに貼るっていう昔の学生のやり方でもいい
コピー取らずに、本を破って貼っても、図書館の本でなければかまわない。そういうふうにして抜き書きを作ることです。
その抜き書きの横に要旨をちょこっと書くとか、キーワードを書くというようなことをやりながら、難しい本を二、三冊読むと、今度は要約が作れるようになります。
要約が作れるようになったら、次は敷衍。同じ内容を別の言葉で言う。あるいは短い見出しに書いてあることを、自分の言葉で長い形で説明してみる。
この訓練をしておいて、難しい本を一五冊から二〇冊読む。そうすると、その後はすらすらと読めるようになりますよ。
最初の一五冊から二〇冊ぐらい読むのには二年ぐらいかかるでしょう。
その二年を自分にとっての教育期間としておくと、だいたい大学院の社会学とか哲学なんかで扱うような書籍を自力で読めるようになる。”(p151-152)
佐藤優さんが提出する課題につき、さぞ厳しい採点基準が存在するのかと思いきや、優しく(佐藤優さんへの道?)ガイドラインが示されていて興味深かったです。
神の声と鈴木宗男(現、新党大地代表)
盟友・鈴木宗男新党代表との関係について、宗教観を絡め・・
” 二〇〇二年に、私は外務省の官房長経験者である飯村豊審議官から「あんたが鈴木宗男のことをいちばんよく知っている」と言われました。
「もちろん、私利私欲のためでなく、外務省の仕事として鈴木さんと付き合ってきたことは、われわれはよく分かっている。
しかし、このままあんたが鈴木さんと一緒に突き進むのなら、うちは守りきれない。だから、鈴木宗男攻撃に加われ。そうすれば、あんたは助かるんだ」と彼は言った。
しかし、私は断りました。鈴木宗男攻撃?それはできない。その時、私の心の中で神様の声が聴こえているんです。
あのね、人間として、鈴木さんなんかと付き合ったっていいことないとは分かっているわけよ。
このままだったらパクられるかもしれないし、もっとエライことが待っているかもしれない。そういうふうには重々思っているんだ。
このままだと将来の可能性なんて全部なくなってしまうとも充分分かっている。
ずっと組織の中にいて、外務省の中で守ってもらえれば、どんな閑職に飛ばされたとしたって、六三歳までなんとか面倒見てもらえることだって、よく知っている。ラクに生きられる。
ところが、そこで私の中に神様の声が聴こえてくるわけです。「それはやったらいけないことだ」と。
あともう一つ、「何とかなるはずだ」と。加担するな、お前はこの難しい時を自力で切り抜けられるはずだ、という声が聴こえてくる。
でも、このことはいまだにうまく言語化できないんだよね。
今ここで言葉にしてみたけれども、やっぱりズレているわけ。あそこで自分が本当に考えていたことや感じたこととはね。
自分の考えていることを言葉にできるかどうかというのは、作業にとってものすごく重要な問題で、実は完全に言葉にすることはどんな作家にもできないんですよ。
神の宗教の違いはある。神と言ったら宗教じゃないか、というのはその通りなんです。
ただ、言語化された神は疎外されたもので、本来の神とは関係がない。しかし、それ以外の形でわれわれが神について表現する方法はない。
それでも本来の神の声としか思えないものが人間に聴こえることがある。まあ、そんところですかね。”(p162-163)
誰しも損得度外視で、心の声というのか、うまく言葉に出来ないものに突き動かされることってあると思いますが、
そのあたり、佐藤優さんの場合、人生の重大局面(キャリアか投獄か)での描写、これも興味深かったです。