落合陽一さんが誘(いざな)う、自然とデジタルが更に融合していく時代の前提と歩み方:『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂 』読了

メディアアーティスト 落合陽一さんの『デジタルネイチャー  生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』を読了。

本書については書店で発売を知っていたものの、タイトルにパラっと立ち読みした際に

「自分向きではない」と感じていたものの、

先月(2019年2月)開催された個展「質量への憧憬」開催中に行われたトークイベント👇 開演前に

<< 2019年2月3日投稿:画像は投稿にリンク >> 落合陽一「質量への憧憬」展 トークイベント「世界を切り取ることで見えてくるクリエイティブとビジネス」参加記

物販ゾーンで本書のサイン本が発売されており、

出典:落合陽一さんTwitter(画像はツイートにリンク)

そのことがトリガーとなって購入に至っていた経緯。

購入本に書かれてあったサイン。

実際に読み始めてみて

” 本書では、<近代>を<イデオロギー>ではなく、<テクノロジー>の側面から乗り越える可能性を考える。

産業革命と資本主義が<近代>の重要な成立要件である以上。その超克も技術的な更新抜きにはありえないはずだ。”(p40)

と本書について説明された一文などからも「難しいなぁー」と、手に取った時の直感は当たっていたものの

内容的には落合陽一さんの本領が発揮されたものであることは容易に想像出来ます。

デジタルネイチャー により実現される世界

序盤、

 ” デジタルネイチャー は、<近代以前>の多様性が、<近代以降>の効率性や合理性を保ったまま、コンピュータの支援によって実現される世界だ。

そこで人々の生き方は、ベーシックインカム(BI)的か、あるいはベンチャーキャピタル(VC)的かに分かれていくだろう。”(p57-58)

とタイトルに示された世界に、

“我々の社会が抱えている最大の格差 ー それは経済資本の格差ではなく「モチベーション」と、そしてその根底をなす「アート的な衝動」を持ちうるかの格差である。

現行人類のコンピュータに対して優れている点は、リスクを取るほどに、モチベーションが上がるところだ。

これは機械にはない人間だけの能力である。逆にリスクに怯え、チャレンジできない人間は機械と差別化できずに、

やがてベーシックインカムの世界、ひいては、統計的再帰プロセスの世界に飲み込まれるだろう。”(p66)

といった時代の捉え/読みがあり、後半で

” 「人間を中心とする世界観」から「機械を中心とする世界観」へと思考を転換し、人間をインターネットに隷属する要素として捉えた場合、

仮にAIが人類に対して何らかの干渉を目論んだとしても我々を直接不幸にするようなアプローチは取らないことが分かるはずだ。”(p219)

或いは

” 我々はデジタルネイチャーの向こうに、高齢者、身体障碍者という分類がなく、個々人が多様性を維持しながらも快適に過ごせる社会を目指している。”(p245)

と我々が突き進んでいる近未来への紐解きがあり、

 ” これからは実践者としての価値が今後、思想とともに重要になるだろう。考えながら手を動かし、思想を語り、波を作る必要がある。

そこに必要なのは日々毎に、集中力の高い、永い現場を、高速で切り替えて、積み重ねる鍛錬だ。

瞬間の価値は、デジタルの永続性に切り取られ、補償される。生も、死も、一瞬一瞬が一つのオプションである。”(p276)

といった時代にフィットする生き方が示されて、 といった私的な骨子を作成。

いざ向き合う近未来

「ガッツ〜ン」と軽く衝撃を受けたのは、

” 5年前の修士論文レベルの研究を15歳が再現できてしまう時代においては、知識が短期間で市場価値を失ってしまうことを前提として、絶え間なく学習によるアップデートを続け、

さらには複数の専門職を掛け持つポートフォリオマネジメントw前提とした働き方を考えなければならない。なぜなら技術シーズはあっという間にプラットホームに回収されるからだ。”(p200)

との時代を脈打つスピード感で、そこに対して

” 今後の社会で重要になるのは、今現在、即時的に必要なことをリスクを取ってやれるかどうかだ。

今ある選択肢の中でできることをやる。そして、やったことによって事後的に「自分らしさ」が想定されていく。”(p201)

と一つの解が示されており、一読した限り、その情報量に圧倒され「わや〜っ」とした理解/感覚に覆われていますが、

時代のフロンティアラインに居る人は「これから(の時代を)こう見ている」、見えざる先の世界の歩み方といったものに触れられた感覚は良く表現すれば刺激的であったです。


Comments

comments