藤原和博さんの新刊『本を読む人だけが手にするもの』を読了.-
先日参加した講演会の対象書籍で、講演会後から程なく読み始めていました。
講演会の要旨は、
今後の人生を豊かにするのは「人との出会いや旅、遊び、仕事」(写真:右上)を如何に充実させられるか。
また、一人であらゆる経験を行うのは時間的、物理的制約もあり、それを補うものとして「読書とネット体験」(写真:左上)が有用となる。
本の中でも、下記のように説明されています。
” さまざまな事象を自分自身ですべて体験できれば面白い人生となるだろう。
しかし、大事なことなので何度も言うが、一人の人間に与えられた時間は限られている。
その限られた時間のなかで、自分以外の人生も疑似体験できるのが読書である。”(p151)
その効果を発揮する上で、読書が効果的なのは
” 本の著者は、滅多にできない経験をしたり、深く研究したり、テーマをずっと追いかけたりして、その道のエキスパートになった人である。
そのエキスパートが考え抜いて表現した1冊の本は、著者の脳のかけらにアクセスするための端末だ。”(p168)
ということによる。しかもそれが
” だいたい1,000円〜3,000円の間で手に入れることができる。たとえば、200ページ前後に詰まった膨大な知識の塊がたった1,500円で手に入ると考えれば、その投資効率は非常に高い。”(p170)
と、その分野で卓越した能力をもつ人たちの断片、経験の共有が極めて廉価な水準で手に入るメリットが解かれています。
また、一般的に人が陥っていることとして
” 人間にはみんな、どこかに欠落している部分がある。しかし、多くのは人は、その欠落している部分がいったい何であるのか、わかっていない。
実社会でなんとなく生きているだけでは、なかなか気づくことはできないのだ。
どうしたらその欠落している部分に気づくことができるのか。おそらく、そのヒントは本のなかにある。
読書によって、さまざまな人物の視点を獲得していける。つまり、巨大なロールプレイをすることができる。
そうしたシミュレーションを繰り返すことで、人生を俯瞰図として見られるようになるのだと思う。”(p121)
という点なども読書だからこその効用として言及されています。
これからの時代に問われる「情報編集力」とは
本の要約的なところ、これは講演会のおさらいにもなりますが、現在の日本が直面している成熟社会の生き方として・・
” 成長社会から成熟社会への移行を、「ジグソーパズル型思考」から「レゴ型思考」への転換だと述べた。
私はこの変化を、成長社会ではひたすら「情報処理力」が求められたのに対して、
成熟社会には必須のスキルがだんだん「情報編集力」に移行するとも表現している。
重心が左から右に移動するイメージだ。では、情報処理力と情報編集力の違いは何か?
講演などで話をするときに、私は134ページにあるような図を書いて説明する。
情報処理力とは、決められた世界観のなかでゲームをするとき、いち早く正解を導き出す力のことを指す。正解を早く正確に当てる力だ。
すでにお話ししたように、これはジグソーパズルを早くやり遂げる力にたとえられる。
ある1つのピースを置く場所=正解は、たった1つしかない。それをいかに早く見つけるかという、「アタマの回転の速さ」が求められる世界である。
情報処理力は、テストの採点で明確に点数がつけられるため「見える学力」と呼ばれている。・・中略・・
旧来の日本の教育は、この情報処理力を鍛える取り組みが中心だった。
たとえば、『走れメロス』を題材としたテストなどで、「帰り道のメロスの気持ちに近いものを、次の4つのなかから1つ選びなさい」といった設問が与えられるのが、20世紀型の成長社会におけるテストの典型的なものだ。
これに対して、21世紀型の成熟社会で求められるのが情報編集力である。情報編集力とは、身につけた知識や技術を組み合わせて「納得解」を導き出す力だ。
正解をただ当てるのではなく、納得できる解を自らつくり出すところがミソ。
納得解を導き出す力というのは、ジグソーパズルでピースを置く場所を探すのではなく、レゴブロックを組み立てるイメージだ。
正解は1つではなく、組み合わせ方は無限にある。そのなかで、自分なりに世界観をつくり出せるかどうかが求められる。
情報処理力が「アタマの回転の速さ」だとすれば、情報編集力は「アタマの柔らかさ」といえる。
『走れメロス』を題材にテストを行なうとしても、選択肢のなかから正解を選ばせるのではなく、
「メロスがもし間に合わなかったら、本当に王はメロスの親友を殺していたのだろうか、について論じなさい」といった具合に、
自ら仮説をつくらせ、ディベートさせるようなかたちになるだろう。
明確に点数がつけられる情報処理力とは異なり、情報編集力はテストでの採点が難しい。したがって「見えない学力」とも呼ばれる。 ・・中略・・
成熟社会で、選択肢の幅を広げ人生を豊かに生きるには、柔軟でクリエイティブな発想をベースにした情報編集力が欠かせない。”(p132-135)
<< 50代からの生き方を問うた藤原和博さんの代表作『坂の上の坂』>>
SNSが紡ぐ極端に振れる人間関係
その他、印象に残ったところでは・・
” 子どもが小学校高学年から中学生になった段階で、スマホを持たせる家庭が多い。その年代の子どもに持たせると一気にのめり込んでしまい、1日何時間もかけてメールやLINEで数百通のメッセージを交換する子どもも珍しくない。
なんとなく寂しいから画面をいじり続ける。少しでも間を空けると、友だちだったはずの相手から攻撃されてしまい、周囲の友だちからも双攻撃を食らってしまう。それが怖くて文字を打ち続ける。
結果的に、ちょっと仲よくなると必要以上にベタベタした関係に陥ったり、反対に、少しでも何かあると絶縁状態になったりする。
ゼロか100、白か黒、◯か✖️。微妙な「間」やグレーな「距離感」というあいまいな状態がなくなり、極端な二者択一の人間関係しか成り立たなくなる。”(p56-57)
日頃、日常的にSNS(Facebook etc)を使っているものとしては、自分が在るべき中心点を問われるような考えさせられる件(くだり)でした。
生き方の選択として問う「読書」
幼少の頃の読書体験に感じた違和感から、社会に出てからも読書癖のなかった藤原さんが一転、読書家に転じた経緯は、
人との出会いであったり、
” 「このままだと、40代になっても自分の意見がないままになる」「自分が追うべきテーマが見つからない」”(p120)
といった焦りから、1年に100冊ほどを読み上げる転身。
以降の経験を通じて、藤原さんが本の中で予測するこれから先の日本の姿は
” 身分や権力やお金による「階級社会」ではなく、「本を読む習慣のある人」と「本を読む習慣のない人」に二分される「階層社会」がやってくるだろうと私はみている。” (p27)
としており、日常習慣に「読書」の二文字があるか否かで、これから歩む人生の幅に厳然たる隔たりが生じることを予想されています。
幸い読書習慣を持ってきた自分としては、それを後押しされた思いで、本書を読み進めるプロセスは心地良いものでしたが
読書癖のない人たちの手がどれほど本書に伸びていくのか、興味深いところですが、本の最後で藤原さんが
” ケータイ/スマホから離れ、読書習慣があるというのは、単なる生活習慣の排除と追加ではないからだ。生き方の選択なのだ。”(p200)
と他人(著者)の脳を借りる行為(読書)を習慣とする人と、しない人を「生き方」で分類されており、
この読了記を読まれている方々にとって「生き方」の選択という高次に分類される問題を問う図書として、
本書を手に取ってみることで、分岐点なり、独自の解を見出すなり、よい契機を迎えられるものと思います。