間もなく2000年5月26日で20年という時間軸で開催された船木誠勝「ヒクソン戦、そして20年」と題されたTALK&撮影会に参加。
船木誠勝対ヒクソン・グレイシー戦は、当時在籍の先輩、同僚たちと都立大学駅近くの寿司屋 2階の個室で視聴しましたが、
登壇された船木誠勝選手は「昨日のことのように覚えている」。
『グレイシー一族の真実』著者の近藤隆夫さんも「まだ、(20年も前のことにように思えず)7、8年前のことのように感じられる」と熱量が高かった人ほど、鮮烈な思い出となっている様子。
登壇者は上記お二人に、試合で解説を務められた布施鋼治さん、直前合宿に、当日は第一試合で激勝し、メインイベントでセコンドにも入られた近藤有己選手。
まず試合前の入場シーンが会場内で流され、入場前の待機場所でヒクソン・グレイシーと(距離を置いて)二人っきりとなった時の心境(やっとここまで来たのに、既に疲れていた)に、
試合開始直前、拳を交える際、ヒクソン・グレイシーの上に自身の手を持っていくことばかり考え、その通りとなった、心理的な駆け引きなど、
つぶさに船木誠勝選手の中で去来していた思いが語られていきました。
練習通りに想定外と、まさか・・
ゴングが鳴らされ、始まった途端、ヒクソン・グレイシーが詰め寄ったきたことが予想外であったこと、
組み合った体制は散々練習していたものの(相撲で言うところの右四つになれず)左寄りの体制となってしまい、組み替えようとしても一向に効かず、やりづらかったことに、
ヒクソン・グレイシーからバンチを浴びせるられるも、力の無さに「これだったら幾ら打たれても大丈夫」と感じた一方、
組み合っていた際、繰り返し膝に攻撃を受け続けており、後にこの蓄積が勝負の趨勢を決めることに至っていったことなど・・
「よく覚えているなぁ」と、それだけこの一戦に賭けていた船木誠勝選手の思いを感じ、
試合が決まった時から弱気になることはあっても「負けることは一切考えていなかった」そうで、
実際、負けてしまった瞬間、無性に「穴があったら入りたい」との心境に駆られ、
控室に引き上げる帰り道、なぜかあったマイクでのパフォーマンスに、試合に前後したエピソードの披露も興味深かったです。
また、トークに深みを実感させられたのは、ヒクソン・グレイシーとの昵懇の近藤鋼夫さんのヒクソン・グレイシー側からの振り返りで
船木誠勝選手の映像はざっと視聴していたものの、イメージを作った程度で、研究、対策といったことをヒクソン・グレイシーがしなかったのは、
実際、試合で映像と違うことをやってきた時にパニックなってしまうことを避ける意図であったり、
試合直前の山籠りでスパーリングといった実戦練習は行わず、(マスコミで神秘性を増すパフォーマンス?などと報じられたものの)単に自然に中でリラックスした状態で本番を迎えていたことなど、リバースアングルでの指摘も興味深かったです。
その中で印象的であったのは、船木誠勝選手が、当時「死んでも思っていい」と思って決戦に挑んでいたのに対して、
船木誠勝選手曰く「ヒクソン(・グレイシー)は死を受け容れているものの死にたいとは思っていない筈だ。自然に生きていた。」と推量した部分。
「死んでもいいと思っていた人間が、生きていたい人間と戦っていた」と述懐されていたシーン、格闘家としての生きざまの交差に対照的な姿勢を描写された点、グサッと刺さりました。
トーク後半では船木誠勝選手の奥様も登壇され、
「(船木誠勝選手が)今が一番幸せだ」と言っている日々であることに触れられ、
このコメントに応えられる形で、「50(歳)になってようやく自分が望んでいた環境が手に入った」とおっしゃられたコメントに、
ヒクソン・グレイシー戦が大きく影響していることが伝わり、20年が経過しようとしている中でのハイライトであったように感じ取りました。
2020 >>
安生洋二さんが、渡米してヒクソン・グレイシーと対峙すべく道場破りの模様を映像で視聴した近藤隆夫さんのお話しを聞けた質疑応答を含め計2時間20分。
船木誠勝選手は、一時の引退状態を経て、リングと自分の関係性を実感し2007年7月に復帰。
ヒクソン・グレイシーは結局、この一戦で引退。
20年とは会場に来られた人たちを含めて、相応に重みのある尺であるように思いますが、
質疑応答の際、昨今のスポーツ化されたUFCについてしばし議論が交わされ、
近藤隆夫さんが、「船木さんがヒクソンと経験した「決闘」」と称された一言が印象的で、
「最早このような一戦は、今後、我々が目の当たりにすることはどうやら無さそうだ」と、
その意味で、この一戦を知る人それぞれにとって忘れ得ぬマイルストーンとして、語り継がれていくものと刻まれた時間となりました。