大横綱 第三十五代横綱双葉山の著書『新版 横綱の品格」を読了。
(著者名は執筆時/親方時の時津風定次)
昭和二十九年に引退され、当然、双葉山関の現役時の姿は知らないものの、不倒の記録六十九連勝であったり、
同記録が途絶えた際に残した「我、いまだ木鶏たりえず」であったり、
伝説の人物として長く脳裏に刻まれており、「実際、どんな人だったんだろう?」の思いを抱いており、
つい先日、著書(本書)が出版されていることを知り、入手した経緯。
逆境を逆手に
淡々と双葉山関が生涯をふり返っておられる印象で、体格に恵まれているわけでもなく、
大横綱として地位を確立するまでは
” 十両になってはじめての本場所では三番しか勝てず、わたしはそれまでに経験したことのない苦汁をなめることになりました。”(p47)
といった具合で、以降も負け越しを喫した際
” 自分の力がどんな程度のものであるかは、いつも相撲を取っている者として、自身にもよくわかっているはずです。
ところが「自分は強い」と信じているのものが、たまたま負けると、気を悪くして落ちめになる場合もあれば、
稽古場でさほどの腕はなくても、たまたま場所に出て、よい成績をとれば、それに自信をえて、実力もまたこれに伴ってくる場合もあるのです。
人間の心理というものは、まことに微妙なものです。
世間の一部には、このとき、わたしが非常に苦悶懊悩したようにも伝えられています。
たしかに、自分の将来の見込みについて、「果たしてやってゆけるだろうか」と悩んだことは事実です。
しかし場所ごとに負け越したからといって、わたしどもは局外者の想像するほど、そんなに苦悶するほどでもありません。”(p54-55)
の述懐など、
私が双葉山関に対して抱いていたイメージのどおり、心に関する記述が散見され、読み応えを感じる部分でした。
本のタイトルに絡んだ部分では
” 日常生活のちょっとしたことが、土俵に影響してくることは、この一事によっても疑えないことです。
玉椿が家での歩きかたすら問題にしたのは、考えてみれば当然の工夫です。
要するに、わたしども力士としては、平素の挙動も土俵の延長とならなければならない。それでなくては相撲には勝てないのです。”(p40-41)
と綴られており、今この時代に改めて(新版として)出版された意図も伝わってきます。
なお、読者の多くが期待するであろう七十連勝を阻まれた時の心情(「安藝ノ海に敗る」p70〜)に、木鶏の話「イマダ モッケイタリエズ」が引用された背景(「木鶏の話」p136〜)についても、しっかり言及されています。
継がれた大横綱の系譜
双葉山関に対して、「本書に寄せて」を執筆されている第四十八代横綱大鵬関の
” この本は、かつて日本国中のあこがれの的だった大横綱が、自分の人生を淡々と振り返りつつ、体験から学んだ相撲求道の軌跡を誠実に、ずばりと指し示してくれたものである。
ページ数は少ないが、実に読むところが多い。わたしは現役時代、仕切りの講義を受けながら、この稀代の英雄から語られる言葉はなんと説得力があり、カッコいいものかと、しびれるような感覚を味わったことを思い出す。”(p157)
の言葉が熱く、
対照的に感じられるのは双葉山関の謙虚さで表れたものであるかもしれないですが、
相撲界にとどまらず、日本人として伝説の域に到達した感の人物の生涯、考えに触れることの出来る、貴重な一冊であるように感じました。