Greg Renoff:グレッグ・レノフが、ロック界のプロデューサーとして名を馳せたTed Templemanの生涯に迫った『プラチナ・ディスクはいかにして生まれたのか テッド・テンプルマンの音楽人生』を読み始めてから
第1章 太平洋
第2章 ジャズ・ファン
第3章 フィーリン・グルーヴィ
第4章 ガラスの向こう側
第5章 ワイルド・ナイト
第6章 リッスン・トゥ・ザ・ミュージック
第7章 ドゥービー・ストリート
第8章 叶わぬ賭け
第9章 溢れる愛
第10章 ホワット・ア・フール・ビリーヴス
第11章 ロックン・ロール・ベイビー
第12章 ジャンプ
第13章 分裂
第14章 5150への復帰
第15章 駆り立てるもの
第16章 兄弟
と章立て(別途、謝辞、あとがき等)されているうちの 第5章 ワイルド・ナイト まで読み終えたので、そこまでのおさらい。
VAN HALENをプロデューサーの立場から
グレッグ・レノフといえば、何と言っても『ヴァン・ヘイレン・ライジング 伝説への導火線』↓の著者であるというインパクトで
本書を発売直後の(2022年)1月に立ち読みした際、VAN HALENにしっかり分量割かれている感触から読もうと思っていた次第。
立ち読みから4ヶ月ほど空白が生じたのには、600ページに迫る本の厚みに腰が引けた影響。
波乱、激動の青年期
読み始めると伝記ではありがちが興味を抱きづらい幼少期の頃の思い出から細かく綴られており、その部分でなかなかエンジンかかりませんでしたが、
” だが、思いもよらないことが起こり始める。2月初旬、私はバーバンクから連絡を受けた。<フィーリン・グルーヴィ> が『ビルボード』のトップ100チャートに88位で初登場したという。
なるほど、『ビルボード』のチャートの上の方に曲が入ったからといって、大ヒットを飛ばしたという意味にはならない。だが、明らかにあの曲には勢いがあった。
ティキスの時は当然ながら、全米規模のチャートなどかすりもしなかったので、これは興奮するような展開だった。”(p086)
裏方として音楽業界で頭角を現す前に、自身のバンドハーパーズ・ビザールで脚光を浴びていたキャリアに
” 資産という意味では、ある程度の経済的余裕があったので、私には次にやることを考える時間があった。サンタ・クルーズのキング・ストリートに家も所有していたし、フェラーリさえ持っていた。”(p130)
という成功を手中に収めるも、輝きが持続せず表舞台から身を引くこととなり、苦心の末、ワーナー・ブラザーズに職を得るも
” ある日私はオフィスで秘書達と話をしていた。その中の一人が、1967年に初めて私と会った時、私はスターだと言った。私はしかめっつらをして「そうか、今の私は週給50ドルだ。もう少し稼げたらいいんだが」と、答えた。
すると、他の女性が冷酷な微笑みを浮かべた。「あら、物乞いは選択する立場にはいないわよ」。みんな声を上げて笑った。
この会話に、私はぞっとするような気分になった。数年前、私はポップ・スターだったが、今の私はオフィスで初心者用の仕事をしているただの間抜けなのだ。ある日、感じた恥辱を私は決して忘れないだろう。”(p134)
というジェットコースターぶり。また、辿った経験の中には、
“「こちらは機長です。サンフランシスコに急用がある方は、変更してください。操縦室の中には、私の頭に銃を突きつけている若者不安定な若者がいます。”(p120)
何と!演奏後に搭乗したフライトでハイジャックに巻き込まれてしまったといった経験もあり、思いのほか引き込まれてしまっています ^^
プロデューサーとしてのキャリア
読み進めたところには
” ドゥービー・ブラザーズは大失敗だったが、私に自分を哀れんでいる暇はなかった。1971年中期になると、他にも多くのことを手がけるようになっていたからだ。
耳を傾けてくれる人には誰にでも、ドゥービー・ブラザーズには凄い才能があるが、デビュー・アルバムにはそれが正しい形で現れていないだけだと言っていた。”(p149)
と、既にプロデューサーとしてのキャリアをスタートされており、まだVAN HALENの登場はありませんが、これからの展開大いに期待されるところです ^^