ノンフィクションライター 長谷川晶一さんが、東京ヤクルトスワローズで活躍された館山昌平元選手への十数時間のインタビューなどを経て出版された『自分を諦めない 191針の勲章』を読了。
サイン本販売機会を捉え
入手していた著書。
覚悟を決め挑み続けた17年間
序章 トミー・ジョン手術はドーピング違反ではないのか? において
” 17年間の現役生活において実に9回の手術を経験した。この身体に刻まれた手術痕は全部で191針もある。”(p5)
との一文に、東京ヤクルトスワローズのサイドハンドで長く活躍していたピッチャーとの表の活躍の一方、知られざる苦闘の日々が予感させられ、
” 小学生時代は「ライパチくん」だった。中学生時代は「どこにでもいるような普通の選手」だった。高校時代になって初めて、本格的にピッチャーとなって、みんなと力を合わせたことで、ようやく甲子園出場に恵まれた。”(p73)
という幼少期、学生時代を経てプロ入りを遂げるも、
” 故障明けにもかかわらず、ドラフト3位という高評価でヤクルト入りをした。しかし、プロ2年目を迎えるときに「全治12ヵ月」という故障、リハビリ生活が始まった。”(p132)
とプロ入りに前後して故障との対峙を強いられ、
” そしてあの日、東京ドームに入った瞬間に、気圧の関係で指先に至る血管がキュッと閉まってしまったのだ。”(p170)
という精細な次元での変化に、行っては戻ってきてしまうの繰り返される故障。
” 一度経験しているだけに手術直後の強烈な痛みの記憶も鮮明に残っている。一進一退を繰り返す、リハビリの大変さも身に染みて理解している。”(p180)
一度壊れてしまうと時間を要する痛みを伴う日々。
” もう、投球に適した移植可能な腱はない。これがラストチャンスだった。”(p199)
と文字どおり身を削って模索、見出されていった現役選手生活。
日々を総括する形で、
” 決して才能に恵まれていたわけでも、人並み外れたパワーやスピードがあったわけでもない。そんな僕が、プロの世界で生き抜いていくためには、自分の限界のさらにその先まで追い求めなければ、とうてい太刀打ちできるはずがなかった。”(p264)
と覚悟を決めての現役選手生活だったことが滲むほど伝わってきました。
苦闘から得られた尊き教訓
対戦相手のファンとしては、最多勝、最高勝率、カムバック賞など表立った活躍に難儀させられた経験は記憶に刻まれていて
その眩しい活躍についても本書に綴られているものの館山昌平さん自身が本書出版の背景につながる
” もがき苦しんだ結果、きちんと一軍で結果を残せるのだということを見せなくてはいけない。必ずゴールは明るいのだということを見せなくてはいけないと思っています」”(p281)
と述べている通り、(トップ)アスリートの宿命であるのかもしれませんが、ケガとの向き合い方、壮絶なまでにそれを繰り返し乗り越えもしたプロフェッショナルの生きざまに触れることの出来る著書でした。