飯田史彦さん著『生きがいの創造』[完全版]を読了。
斎藤一人さんの講演の中で紹介されている本で、てっきり、最初は斎藤一人さんの著作かと思いきや
飯田史彦さんの1996年にまで遡る初版から累計二○○万部を超える「生きがい論」シリーズを上梓されているロングセラーの総仕上げ版(と理解)。
飯田史彦さんは・・
” 私は、経営学という学問分野を背景にしながら、スピリチュアルな概念の活用方法について研究してきた”(No.8475/数値は電子書籍のページ数に相当/以下同様)
とお立場から、本書で何が書かれているかというと、
” 「死後の生命」や「精神世界」”(No. 843)
について。そして、そこから導かれた
” 私たちの人生は、どうやら、素晴らしい「生命のしくみ」や「宇宙のしくみ」の中で、ドラマティックに展開されているようですね。
本書は、まさに、それらの素晴らしい「しくみ」について、新しい科学の観点から、読み解こうする試みなのです。”(Np.377)
注目すべきは、本来、飯田さんのご専門が「経営学」でありながら、本職を離れて長きに渡ってに上記分野の解明に取り組まれていること。
そこに至るには、ただならぬ背景があるわけですが、本書が刊行された経緯は
” 本書の真の目的は、否定したがる方々を説得することではなく、あくまでも、これらを認めることに迷いを感じていらっしゃる方々を勇気づけたり、
これらを「信じて」いらっしゃる方々に科学情報を提供することによって、みなさんの人生を、大いに応援することなのです。”(No.994)
まず本書が類書と一線を画すのは
” 本書では、いわゆる霊能者や宗教家、民間のセラピスト(治療家)やジャーナリスト(報道関係者や評論家)、
あるいは文化人や芸能人と呼ばれる方々がお書きになったものは、よほどの理由がないかぎり、取り上げないことにしています。・・中略・・
できるだけ学術的かつ客観的な立場を守るために、名の通った大学の教官や優れた研究者、そして臨床医の研究するよう心がけました。
十九年間も大学教官の立場にあった私にとって、このような方針で検討・執筆することは、とても大切な心がけであると同時に、「いつものこと」として、本業のお堅い論文を書く際の習慣でもあったからです。”(No.994、1003)
と、いわゆる
” スピリチュアルな世界の存在や、そのしくみについて “(No.1059)
アカデミックな見地から検証が重ねられていること。そして、結果として飯田さんの著作が
” 親子関係や育児で真剣に悩んでいたり、子どもに先立たれて悲嘆にくれていらっしゃる方々にとっては、これらの証言がもたらす「ほんのわずかな希望」が、大きな支えになるのです。”(No.384)
これらの証言とは、本の冒頭で紹介されている児童が過去の人生の記憶に語っている複数のセッションから引用されてのもの。
飯田さんが研究を重ねる中で
” 私は本書の出版以降、物質主義者のか方々から届けられる、激しい誹謗中傷の攻撃にさらされてきました。・・中略・・
一時は、言葉の暴力によるストレスで入院したこともありましたが、つらい時には、読者の皆様からいただいたお手紙を読み返しては、自分を励まし、勇気をふるい立たせ、自信を取り戻してきました。
一方では、本書が「有意義な人生を送るための思考法」を説く書であることを正しくご理解くださらず、
私を「死後の生命」や「精神世界」そのものについての研究者だと誤解なさる方々から、目的の異なる大歓迎を受けて困惑することも、少なくありませんでした。”(No.834、843)
と、人生の覚悟を決めて臨んだ渾身作であることが説明されており、実際、下記に引用する示唆が根拠に基づいて述べられています。
本書で感じる事のできる「真理」(抜粋)
で、本書の中身はというと、様々な事例の積み重ねをもとに前世の自己との対話を重ねた被験者の・・
” 私たちがとらわれている「物質」こそが、むしろ実体のない幻であり、私たちが軽んじている「精神」こそが、むしろ私たちの「実体」なのです。”(No.3195)
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” 「人生で果たすべき仕事(役割、使命)」を抱えて生まれてくるようですね。”(No.3556)
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” 「二十一世紀には、『死』の定義が、新しいものへと変わるはずです。それは、『死ぬということは、体から離れて生きるということである』、という定義です。
私たちの正体である意識または魂は、肉体が機能を失うと離れるだけであって、決して宇宙から消えてしまうわけではないのです。
この宇宙に存在することを『生きている』と表現するならば、死ぬということは、単に、体から離れて生きるということに過ぎません。
体を持っている人も、体を持っていない人も、みな同じく、生きているのです」”(No.3563、3572)
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” 退行睡眠の被験者や臨死体験者の証言によると、私たちのだれもが、人生を再現するビジョンを見せられながら、終えてきた人生におけるすべての言動の説明を求められます。
そして、そこで問題とされるのは、私たち一人一人の誠実さ、道徳性のみだそうです。
・・中略・・
問われるのが、結局のところ、「どれだけ人々を愛したか」「つねに良心的な言動をとったか」ということのみであり、
この世でもうけたお金や、得た地位がいっさい評価されないことは、きわめて重要です。
これこそが、生まれ変わりの法則をつかさどる、基本原則だということができるでしょう。
言い換えれば、たとえ有名な大スターや、大企業の社長や、や総理大臣になったとしても、その人生で多くの人を裏切り、傷つけてしまった場合には、もだえ苦しみながら反省することになります。
その逆に、たとえ一生をお金や地位とはまったく無縁な農民として過ごしたり、社会的にはうだつのあがらないサラリーマンとして終わったとしても、
その人生で多くの人々に愛情を与え、かかわった人々を幸せにしてきた場合には、指導役の意識体からたいへん賞賛され、自分の成長度を確認して大いに満足することができるのです。”(No.3624、3632)
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” 『あなたがた人類は力あるスピリチュアル(霊的)な存在で、地上を善に創造するために生まれていくのです』。”(No.3732)
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” 人はみな、自分に最適な人生を、自分なりに順調に歩んでいるのですから、全く異なる内容・難度の人生を歩む他人と比べて一喜一憂するのは、意味のないことだと言えるでしょう。”(No.3994)
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” 大切なことは、忍耐とタイミングだ。すべてのことには時がある。人生をあせってはならない。
人生は、多くの人々が期待するように、うまく予定どおりに(著者注:自分の望みどおりに、という意味)いくことはない。
したがって、人はその時々にやってくるものを受け入れ、それ以上を望まないほうが良いのだ。生命には終わりはない。
人は決して死なないし、本当はあらたに生まれるということもない。ただ、いくつも異なる場面を通りすぎて行くだけなのだ」”(No.4062)
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” 挑戦から逃げ出さない事が大切です。挑戦し続けさえすれば、たとえ失敗したとしても、ほんのわずかであっても、必ず何かの点で成長できるからです。
挑戦することをやめてしまっては、そのほんのわずかな成長でさえも、得ることができません。
その意味で、「愛」について学ぶということは、「成功すること」ではなく「挑戦する」だと言えるでしょう。
もしも最後で力尽き、ケンカ別れしてしまうかもしれないとしても、自分にできる限界のところまで「愛」ある態度を貫いてみたうえで、さらにもう少しだけがんばってみること・・・
その「もう少し」が、自分の「愛」の限界を広げることになるのです。”(No.4499、4508)
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” 今回の人生で私たちがおかれた境遇は、決して偶然にもたらされたものではない、ということだ。
私たち自身が、中間生で肉体を持たない状態の時に決定したことによって、今回の人生が決まる。
そして、どのような潜在意識(心がけ)で人生を生きていくかによって、悪運や良運がめぐってくるのである。”(No.4868)
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” 私たちの正体は、「自分」という独立した自覚と意志を持ち、成長したいと願う「意識」であり、
今回の人生では自分の脳とつながって、自分の肉体をコントロールしながら「人生」という体験を通じて学んでいる、精神宇宙の一部なのだということがわかります。
言い換えれば、「自分という意識」が、物質宇宙における「今回の人生」という修行に最適な肉体として選んだものが、「自分という人間」です。
自分の正体である「意識」が、自分という肉体を持つ人間として生まれることを、自分の意思で選んだのです。
・・中略・・
人生で起こってくることは、全て、自分で自分に与えた試練なのだと考えれば、ほかの人のせいにして恨んだり、神様や仏さまのせいにして運命を呪うことは、できなくなる
・・中略・・
「人生という問題集」の中で、人間として最も大切なことは、「成長すること」です。”(No.5038-5056)
といった、読み手の納得度により、仮説、結論、或いは脱落と次元は分かれると思いますが
積み上げられた事実をもとに、方向性が示されており、飯田さんの見解に同意出来る場合、
本書のタイトルになっている「生きがい」に結びつき、今までの人生で釈然としなかった事に対する示唆が得られ、氷解する部分もあり
ページを読み進めるにしたがって、私の場合、元氣になっていきました。
根拠から導き出される普遍性
例えば、その顕著な一例として「因果関係」の法則として紹介されている下記の内容も印象的です。
” 「自分が誰かを傷つけると、いつか必ず、自分も誰から同じくらい傷つけられ、逆に自分が誰かを助けてあげると、いつか必ず、自分も誰かから同じように助けてもらえる」、という法則です。
必ずしも、自分が傷つけたり助けたりした同じ相手から返ってくるわけでもなく、一見すると全然無関係の人から返ってくることも多いものの、それでも目に見えないところで深くつながっています。
また、自分の言動がすぐに返ってくるわけではなく、数日後、数週間後、数カ月後になったり、もしかすると数年後、数十年後になるかもしれないものの、いつか必ず自分に跳ね返ってきます。
わかりやすく言えば、自分が行った「善行」(貯金)や「悪行」(借金)が、宇宙の法則(銀行)において管理されており、困った時には自動的に貯金が引き出される一方で、借金はいつか厳しく取り立てられるのだ、と説明することができるでしょう。
このようなしくみを理解すれば、正しく生きるための単純明快な方法が、浮かび上がってきます。
それは、ただ一言、「自分が出したものが返ってくるのだから、自分が返してもらいたいものだけを出し、返してほしくないものは出さないようにすれば良いのだ」ということです。”(No.3781、3790)
誰にでも分かる端的な一文で在るべき姿が説かれており、他でも事例紹介(積み重ね)→仮説(結論)のプロセスが繰り返され、
ページ数が進むに従って、今生を生きることに対する包括的理解が深化していく感覚を得られます。
見えざるものを意識す
以上、本の前半分から読書中にハイライト(色塗り)した部分を抜き出したものです。
前の本の読了記(『変な人が書いた成功法則』)をアップしたのが、11月21日。
紙の本で実に900ページ超に及ぶ分量から長めの読書期間を想定していたものの、断続的ながら1ヶ月近くに及びました。
前半はカウンセリングのダイアローグ等で、本来、ペース良く読んでいけるはずですが、振り返ると引用箇所の多さからも、考えながら読んでいたことに気付かされます。
紹介出来たのは本全体のボリュームからすると二割にいくかどうかといった量に止まるものと思います。
私個人では、このところ継続して傾聴している斎藤一人さんの講演内容(via YouTube)を補完的な役割を果たしてくれるもので、
斎藤一人さんが本書から講演内容(人生哲学)を構築したのか、もとより一致していたのかはさたかではありませんが、
双方(講演と本書)に触れると、もはや氣とか霊は疑いようのない存在として身近に感じます。
斎藤一人さんの講演で、
「親に対する感謝の気持ちって、見えないけどあるだろ?」
という一節があり、自分はそう言った感覚に長けていないとの認識から、
目に見えないもの対して深く考えを及ばせていないところがありましたが、
見えないものも積極的に認めることの必要性(理解しようとする姿勢)を感じました。
こちらをお読み頂いている方は余力あると思いますが、身近で、「生きる」ことの意義を見失ってしまっていて、
本一冊読める程度の活力しか残されていないような崖っぷちの方などいらっしゃれば、深い闇に光をもたらす力を持った一冊と思います。*今回は文字ばかりのレイアウトで恐縮です m( ___ )m
凄い(力を持った)本です。