稲葉篤紀 前侍ジャパン監督の『活かして勝つ 金メダルをつかむチーム作り』を読了。
別のサイン本を物色しに書店に立ち寄った際、
本サイン本を見つけ、購入していた経緯。
本書は
第一章 代表監督就任から五輪まで
第二章 決戦へ
第三章 出会った監督たち
第四章 侍ジャパンの関係者に聞く
第五章 <対談> 監督という役割 井上康生
という章立てで、(本記事の)タイトルはオリンピックに寄せましたが、実際は稲葉篤紀さんの幼少期から現役選手時のエピソードも掲載されています。
金メダルへの礎、そして分岐点・・
主たるトピックである東京オリンピックについては
“「いいメンバーを集めるのはではなく、いいチームを作りたい」。私が日本代表チームのチーム作りをする上で一貫して目指したことです。”(p6)
という出発点から、チームの主軸を託す計画であったものの右脇腹を痛めていた柳田悠岐選手との
“「将来をつぶすわけにはいかない」と言うと、「つぶれてもいいです。今が大事です」と答えます。”(p72)
と薄氷を踏むかの状態であった舞台裏に、
” 五輪3試合目で初出場。サインはバントという重圧のかかる打席で、本当によく決めてくれました。
あそこで選手がグッと一つになった気がします。栗原は思い切りのいい打撃が持ち味ですが、バントも上手だと聞いていました。結果的に、五輪での打席はあの一度だけでしたが、大仕事をしてくれました。”(p100)
をチームのレベルを一気に高めた地味だけれどもキーとなったプレーに、日本野球界悲願の金メダルの貴重な現場録となっています。
少年イチローの衝撃、星野仙一監督との電話
東京オリンピック以外では
” 小学5年生の時には、大きな出会いもありました。当時、自宅近くにあるバッティングセンターに通っていたのですが、そこには鈴木一朗少年 ー のちのイチロー選手も来ていました。
・・中略・・
当時、彼は私の一つ下の4年生。私はだいたい時速100キロくらいのボールを金属バットで打っていたのですが、イチロー選手は最速の120キロの球を木のバットで打ってました。
それも、すごいスイングスピードで。・・中略・・ しかも、バッターボックスよりも1、2メートルくらい前に立って打っていて、すごく驚かされましたし、「まだまだ自分には足りないものがある」と分からせてくれました。いまだに忘れられない光景です。”(p130)
と小学生時に受けた衝撃に、
北京オリンピックで(当時)星野仙一監督から
“「日本のために、野球界のためにぜひ、君の力が必要だ」”(p145)
との手紙を貰い期待を示されるも、大会直前に右臀部を痛めてしまい、
“「ケガの具合はどうだ?」
「痛かったり痛くなかったりという状態です」
「(五輪に)出たいのか? 出たくないのか? どっちだ?」
突然の問いかけに驚きながらも、迷いはありませんでした。
「出たいです」。即答しました。
「そうか、わかった」
・・中略・・
北京五輪を経験していなければ、こうして日本代表の監督にもなっていなかったかもしれません。自分の人生の分岐点になった電話だったと思っています。”(p146)
と稲葉篤紀さんの後の運命を決めた個人史に、野球ファンにとって興味深い内容となっています。