先週、上巻の読了記↓
をアップロードした作家 伊東潤さんの『威風堂々(下)ー 明治佐賀風雲録』を読了。
下巻を読んで強く感じたことは
” 「君はどうして外遊しない」
「別に意地を張っているわけではありません。たまたま、その機会がなかっただけです」
それは本音だった。現に大隈は明治四年、条約改正の下交渉をすべく、自ら使節団を編成して外遊しようとした。
ー だがそれは、わしに功を取らせたくない大久保さんや木戸さんによってつぶされた。
しかも大隈は、岩倉使節団の一員にさえ加えられなかったのだ。”(p159)
に、
” 天皇はその生涯を通じて大隈を嫌い、常に大隈の行く手に立ちはだかった。だが大隈は明治天皇を「不世出の大帝」と言って絶賛した。”(p359)
或いは、
” 閥族政治の代表と化していた山縣は、立憲政治の象徴たる大隈を嫌い、ことごとく対立していた。”(p365-366)
と、 周囲から疎まれたこと。その一方、
” 大正三年四月十六日、第二次大隈内閣が発足した。それまでの最高齢組閣者は山縣の六十歳なので、それを大幅に上回る七十六歳での組閣となった。”(p369)
と二度に及び総理大臣に就任、政敵からも傑出した力量を認められていたということ。
また、盟友 江藤新平(死刑で四十の生涯に幕)の
” 「ありがとう。だがいつかはわしも死ぬ。大切なのはいかに死を生かすかだ」”(p101)
と命懸けの時代で、大隈重信自身も
” 「いや、見舞いの口上は省略しましょう。たかが足一本取られただけですから」”(p278)
と馬車で移動中、爆弾を投げ込まれ右足を失う憂き目に。
そうした幾多の困難に遭いながらも、存命中にとどまらず
” 佐賀藩の武士の家に生まれた一人の男子は、明治から大正にかけて日本国に絶大な貢献をし、さらに国家の将来を託すべき人材を輩出する場、すなわち早稲田大学を創設し、静かにこの世から去っていった。”(p399)
と後世の礎を為す仕事も遂げ、著者 伊東潤さんをして
” 幕末から明治維新という動乱期に青春を迎え、明治国家の建設という大任を負った一人として壮年期を過ごし、さらに大正時代まで国家に貢献してきた大隈の人生は、才ある者として最高のものだったに違いない。”(p398)
という力強く生きた生きざまが、簡潔明瞭な文章で約800ページに及んで描かれており、爽快な読後感を与えてもらうことが出来ました。