伊藤智仁さんが振り返ったヤクルトスワローズで迎えた絶頂と再起に賭けた日々:『幸運な男 ー 伊藤智仁の悲運のエースの幸福な人生』読了

ノンフィクションライターの長谷川晶一さんが、元(東京)ヤクルトスワローズさんに伊藤智仁さん仁迫った

『幸運な男 ー 伊藤智仁 悲運のエースの幸福な人生』を読了。

中間記↓を書いている時点で気になっていた

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タイトルにある「幸福な男」が意味するところは、伊藤智仁さんが、現役生活を振り返り

“「ラッキーだと思います。ただ、それだけです。」”(p261)

不運ではない幸運だったプロ野球人生

この言葉に込められた真意は

” 人とは違う緩い肩関節を持っていたこと。強豪校ではなかったので、高校時代に肩を消耗しなかったこと。

永田晋一が快くスライダーを伝授してくれたこと。山中正竹というよき指導者に出会えたこと。バルセロナ五輪で野球競技が正式採用されていたこと・・・。

あるいはヤクルトという球団に入ったこと。野村克也の下で野球を学んだこと。古田敦也という稀代の名捕手とバッテリーを組めたこと。

「酷使」としか表現できないほどの登板機会を与えられたこと。アメリカに渡って、日本とは違うリハビリを体験し、学べたこと。

いい仲間に恵まれたこと。たび重なる故障の結果、身体に対する意識が高まったこと。世間が勝手に「悲運のエース」というイメージを持っていること・・・。

さらに、引退後もなお、ユニフォームを着続けていたこと。仲のいい両親の下、のびのびと育てられたこと。いい妻と子どもたちに恵まれて、幸せに暮らしていること・・・。

これまでの人生のありとあらゆることが「ラッキーだった」と彼は考えている。”(p361)

また、故障に向き合わされた現役生活を

” 「僕は毎試合、毎試合、「いつ壊れてもいい」と思って投げ続けていました。本当は壊れちゃダメなんです。

でも、当時の僕は「壊れていい」と思っていたし、壊れることを恐れていなかった。そしてその結果、壊れた。

それはしょうがないことだし、自分でもあきらめのついている部分なんです。

ただ、世間の人はこの点を見て「もっとできたはずだ、惜しかった」と言ってくれているんだと思います。

だけど、もし僕が腕を振ることを怖がっていたらプロに入ることもできず、新人王を獲ることもできなかったはずですから」”(p359)

また、別の視点で

” 「・・・もしも、故障をしなくてそのまま投げ続けていたとしたら、たぶん打ち込まれて成績はもっと悪くなっていたはずです。

でも、結果的にそこまで投げることはできなかった。

だから、世間の人は「いい想像」をしてくれているんだと思います。

打たれるイメージは持たずに、抑えるイメージだけを持ち続けてくれるんです。

そのまま投げ続けていたら、確かに勝ち星は増えるだろうけど、負け数も当然もっと増えるし、防御率はさらに悪くなるはずなのにね・・・」”(p358)

と述懐。

伊藤智仁という生きざま

本書を読み進めていると確かに、故障しても原因が分からない状況であったり、リハビリを続けていてもトンネルの先に光を見出せない日々に・・

野村克也元監督をして

“「彼は本当にピッチャーらしいピッチャーやったな。手足が長くてしなやかで。まるでピッチャーをやるために生まれてきたような身体だった。

それに男気もあったし、「打てるものなら、打ってみろ!」という一流ピッチャー独特のうぬぼれもあった。

長い間野球と関わってきたけど、あんなピッチャーはなかなか出てくるものじゃないよ。

私が見てきた投手でナンバーワン、彼の右に出る者はいない」”(p341)

という稀代の才能、資質を持ち合わせたアスリートでありながら、あまりに過酷な現実に向き合わされながらも

常に前向き、故障と向き合い、ひたむきに戦い続けた姿勢は、周囲でその姿を見ていた松谷秀幸さん(現 競輪選手)、館山昌平投手をはじめとする選手たちに生きざまを示すなど

プロ野球界のマウンドで、ほんの僅か開花させた誰も到達出来ないであろう圧巻のピッチングもさることながら

それはごく断片的なもので、

そのピッチングを実現させた伊藤智仁(さん)の見事な生きざまに十二分に触れることの出来る一冊でした。


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