女優をはじめ様々な分野で活躍された岸惠子さんの『岸惠子自伝 卵を割らなければ、オムレツは食べられない』を読み始めてから
第I部 横浜育ち
第II部 映画女優として
第III部 イヴ・シァンピとともに
第IV部 離婚、そして国際ジャーナリストとして
第V部 孤独を生きる
と章立てされているうちの「第II部 映画女優として」まで読み終えたので、そこまでのおさらい。
岸惠子のお名前は承知しているものの、自分の世代上という感覚強く、出演作品が思い浮かぶことない状態ながら
女優の方の自伝は、直近では秋吉久美子さん ⬇︎
など年1、2冊といったペースで読んできたことに、ショーケンこと萩原健一さんのエピソードあれば興味深い(掲載の有無不明)であろうと、
サイン本きっかけで購入。
鮮烈なる幼少期、そして女優の道
序盤は、
“「こんなところで何をしているんだ!子供はみんな防空壕だ」
その人は母の濡れ布団を引きはがした。一部に火がついて焦げていたのだった。砂利道を引き摺られ放り込まれた防空壕は、詰め込まれた子供や、大人たちの怯えた顔が引き攣れていた。
土を掘っただけの暗い穴を見て、ここにいたら死ぬと思った。暗い穴の中で死ぬのは嫌だった。
・・中略・・
わたしが逃げ出した急ごしらえの横穴防空壕にいた人たちは、土砂崩れと爆風でほとんどが死んだ。大人の言うことを聴かずに飛び出したわたしは生き残った。
「もう大人の言うことは聴かない。十二歳、今日で子供をやめよう」と決めた。”(p27-29)
という九死に一生を得た壮絶体験や
“「根性を通せ。君にはたくさんの才能がある。好きなことをやれ。人生は短いんだ。苦手なものはやらなくていい」
「えっ?」
この日、わたしが出した初めての声だった。先生はほほ笑んだまま傾いた夕陽を背負っていた。
その後、社会に出たわたしが心からお礼を言いたいと思ったとき、先生はこの世にいなかった。
「人生は短いんだ。好きなことをやれ」
と言った先生は胸を病み、あまりにも早く旅立ってしまったのだった。”(p46)
という悲しみに襲われながら指針を得られた幼少期に、
松竹大船撮影所研究生の立場から女優の道を歩みはじめ
” カメラマンがわたしの顔を見ながら「ちょっとわらってみようか」と言う。
「なぜ笑うんですか」と聞いたら、
「あんたじゃないよ。後ろの茶箪笥を外せということだよ」と言ってみんなが笑った。
またわたしの顔をじっと見て「ちょっと顎をあげようか」と言う。
「もうちょい」
「これ以上あげたらひっくり返ります」とわたし。
「あんたの顎じゃないよ。お二階さんのライトの顎だよ」と言ってスタッフがまた面白がった。
<主語をはっきり言えよ>と、わたしは心の中で呟いた。”(p61)
と業界に足を踏み入れての洗礼!?に、
” わたしは「うまい女優」であるよりも、「いい女優」でありたかったし、演ずることにだけ心魂を傾けて、「芸ひと筋」の人生はいやだった。
世界に起こるさまざまな事件の焦点、それに身を絡ませて生きていきたかった。それがわたしの生きたい人生だった。
だから映画の出演作は少ない。七十年間で百本にも満たないと思う。”(p74)
と早くから明確にされていた人生観/女優像まで。
分かりやすくも個性伝わる文体で、すらすらと読み込めており、中〜後半、女優の枠にとらわれず一人の自立した女性として生きた軌跡に興味深くしたく思います。