古武術研究家の甲野善紀先生の『武術稀人列伝 神技の系譜』を読了.-
先日の『ヒモトレ』著者の小関勲先生とのトークイベントでの対象書籍として購入したもの。
本書は五章立てで、五名の武術家:第一章 松林左馬助 夢想願立、第二章 加藤有慶 起倒流柔術、第三章 松野女之助 小山宇八郎 弓術、第四章 白井亨 天真兵法と、第五章 手裏剣術という構成。
と、列挙した名前に馴染みのある方は相当な通であると思われますが、これらの武術家に術を
” 何分にも数百年も以前の遥か昔のことが中心であり、不明なことは非常に多くある。
ただ、遥か昔のこととはいえ、私としては可能な限り調べ、また、検討を加えて現時点では私自身の考えをこの本にまとめたつもりである。”(p4-5)
というもの。
古武術研究家・甲野善紀先生『武術稀人列伝 神技の系譜』発売
夢想願立 松林左馬助伝
武術関連の前提知識に固有名刺等々が不足している私にとっては読後の歩留まりが低く、主に字面を追いかけていくという読書形態となりましたが、
ところどころ取り上げられている武術家の人間性に触れるかの件もあったりしました。
例えば、甲野善紀先生が・・
” 日本の武術師のなかで知られている何人もの名人・達人のなかでも、私が最も関心を寄せている武術家は、江戸初期に夢想願立を開いた松林左馬助永吉である。
松林左馬助の知名度自体は、宮本武蔵、柳生十兵衛、千葉周作などといった剣客に比べればはるかに低いが、
日本の主だった剣客を紹介した書籍や雑誌などではしばしば紹介され、マンガのなかでも時々登場しているので、それなりには知られている剣客だと思う。
・・中略・・
松林左馬助が他の日本武術史に遺る数多くの著名な剣の名人・達人達と異なる大きな特色のひとつは、師匠がおらず、まったく独自の工夫に拠ったということであろう。
・・中略・・
松林家に伝わる資料によれば、
「幼より剣術を好修行せんことを欲て入深山幽谷修練之尽工夫・・・」
と、幼い頃から剣術が好きで、自ら修行したいと深山幽谷に分け入り、独自で工夫を尽くして修行をしていたとされており、
あるいは本当に見様見真似のまま、一人で稽古をしていたのかもしれない。
左馬助の武術修行において、大きな転機は慶長十二年の正月二十三日の夜、十五歳の時に訪れる。
松林家に伝わる『松林家文書』によれば、
(資料引用/省略)
つまり「霊夢を見た」というのだ。
資料はその夢がどのようなものであったかは伝えていないが、左馬助は深く心に期するものがあったのだろう。
意を決した左馬助は愛宕山に籠ったという。
・・中略・・
山中での一人稽古によって左馬助は、誰かに学ぶということではなく、武術の妙境を得て、独自の新流儀を開く決心をしたようである。
それによって剣術、槍術、薙刀その他飛鳥のような身のこなしと、思いもかけない変化の妙は、とても人間技とは思われなかったということだろう。
これについて左馬助が自ら書いた伝書のなかで、例えば剣術については
(資料引用/省略)
つまり、「この太刀は他流を覗くことなく、すなわち愛宕山大権現から夢のなかで御相伝いただいた大事である」と記し、
薙刀についても、ほぼ同じく
(資料引用/省略)
などと書いているように、誰か人に就いて習うとか、自分で稽古の方法を考えて組み上げる、というようなものではなく、ほとんど入神状態となって異界と交流し、そのなかから組み上げたものと思われる。
したがって、もしこのような左馬助の稽古を他人が覗いていたら、まるで何かに憑かれたような姿で一人稽古をやっているように見えたのではないかと思う。
ただ、左馬助自身ははっきりと実感できる天狗などの、異界の存在と稽古をしていたのだと思う。”(p14-18/括弧書きは省略)
現代に遺される武術家の生きざま
上述の如く、出典資料に基づいた武術家の史実を一部推量も交え、381頁の分量で綴られているというのが本書ですが、
かなりの部分、各章の最後、<<資料>>という形で原文が掲載され、この部分を深追いしなければ
さほど労を感じることなく、頁をめくっていけるものと思います。なお、本文でも資料原文の引用がありますが、適宜、意訳が挿入。
武術に対する造詣、理解度等によって本に対する愛着、重要性といったことが分かれてくるものと思いますが、
類書の存在が多数に及ばないであろうという想像をすると、武術家の生き様が現代に伝承されるなど、貴重な一冊であろうことは本の重量とともに伝わってくる感覚でした。