哲学者 國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学 増補新版』を読み始めてから、
全部で七章(+序章、結論ほか)まであるうちの第三章までを読み終えたので、そこまでのおさらい。
本書の冒頭「増補新版のためのまえがき」で、
” 我々は妥協重ねながら生きている。
何かやりたいことをあきらめたり、何かやるべきことから眼を背けているだけではない。
どういうことなのか。なぜこうなってしまったのか。何か違う、いや、そうじゃないんだ・・・。
そのように感じられる何ごとかについて、「まぁ、いいか」と自分に言い聞かせながら、あるいはむしろ、自分にそう言い聞かせるよう心がけながら生きている。
この本はそうした妥協に抗いながら書かれた。自分が感じてきた、曖昧な、ボンヤリとした何かに姿形を与えるには、それが必要だった。
もちろん、妥協に抗うことは楽ではない。けれども、大きな慰めもあった。自分が相手にしている何かは、実は多くの人に共有されている問題であること、
それどころか、人類にとってのこの一万年来の問題であることが分かってきたからである。
その問題は「暇と退屈」という言葉で総称されている。”(p1)
とイントロダクションがあり、
序章 「好きなこと」とは何か?
第一章 暇と退屈の原理論 ー ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?
第二章 暇と退屈の系譜学 ー 人間はいつから退屈しているのか?
第三章 暇と退屈の経済史 ー なぜ、「ひまじん」が尊敬されてきたのか?
第四章 暇と退屈の疎外論 ー 贅沢とは何か?
第五章 暇と退屈の哲学 ー そもそも退屈とは何か?
第六章 暇と退屈の人間学 ー トカゲの世界をのぞくことは可能か?
第七章 暇と退屈の倫理学 ー 決断することは人間の証しか?
結論
あとがき
という章立てのもと、古典書などを参照して考察が進められていきます。
日常で感じることが、分かりやすく
本書を手に取るきっかけは ↓
を参照頂ければと思いますが、
実際、書店で手に取り、レジに持っていこうかという段階で・・
本の厚さ(=375ページ、+注 & 付録)に、哲学をアカデミックに扱った著書に対して(大学の講義での苦戦等から)尻込みするようなところはありましたが、
実際に読み始めてみると、本の取説的なことが「序章」内に記されていたり、
要点には傍点が施されるなど、
専門性のない読み手に対してのハードルは下げられており、興味深く読み進められています。
これまでで印象に残った一文を抜き出すと、
” 暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのか分からない。何が楽しいのか分からない。自分の好きなことが何なのか分からない。
・・中略・・
なぜ暇は搾取されるのだろうか?それは人が退屈することを嫌うからである。
人は暇を得たが、暇を何に使えばよいのか分からない。このままでは暇のなかで退屈してしまう。
だから、与えられた楽しみ、準備・用意された快楽に身を委ね、安心を得る。
では、どうすればよいのだろうか?なぜ人は暇のなかで退屈してしまうのだろうか? “(p23-24)
或いは、
” 生きているという感覚の欠如、生きていることの意味の不在、何をしてもいいが何もすることがないという欠落感、
そうしたなかに生きているとき、人は「打ち込む」こと、「没頭する」ことを渇望する。
大義のために死ぬとは、この羨望の先にある極限の形態である。<暇と退屈の論理学> は、この羨望にも答えなければならない。”(p30)
といったところは、説明を受けて実感湧いた部分で、前のめりにさせられます。
「暇と退屈」の向こう側の世界
人は、ある程度のルーティンによって生きて(/生かされて)おり、例えば仕事を辞めるなどして
突然、期間の定めなく1日24時間、好きに時間を使って良い状況を迎えたら、多くの人が混乱に陥る(=何をして良いのか分からない)ものと思い、
実際、定年を迎えられた方々の「生きがい探し」はしばしば耳にすることです。
解のひとつ(すべて?)と思われることは、引用をもとに
” 熱中をもって取り組める活動が得られれば幸福になれるということだ。”(p61)
と既に示されていますが、
自分が漠然と抱いてきた関心事に対して、濃厚な分量から導かれる着地点を楽しみにしながら、中、後半の展開を楽しむことが出来ればと思います。