先日、中間記をアップロードした
國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』を読了(注 を除く)。
本書を読んでみようと思った動機が、タイトルにある暇、退屈を感じた際に、従来と捉え方を変えることが出来れば、肯定感が高まるかなといったもの。
そのレベル感からすると、中盤で展開されている論は次元が高いと感じられるところもありましたが、
” 人は日常の仕事の奴隷になっているのか?それは「なんとなく退屈だ」という声から逃れたいためだった。
常識から言えば、奴隷になるのはとてもイヤなことだ。だが、この声に悩まされることは、それとは比べものにならないほど苦しいのだ。”(p312)
事例として
” 将来を思い悩む学生にとって、自分に何ができるか、どんな仕事があるか、そういったことを考えるのは苦しい。しかも何をしていいのか分からない。
おそらくそんなとき、「なんとなく退屈だ」という声が響いてくる。それにはとても耐えられない。
だから、それよりも大きく鳴り響いている別の声を探す。たとえば、「資格がなれれば社会では認めてもらえない」「資格をとっておけば安心だ」という世間の声。
この大きく鳴り響いている声に耳を傾けていれば、苦しさから逃れられる。
そうして資格取得の決断を下す。決断してしまえば本当に快適である。資格試験の奴隷であることはこの上なく楽だ。”(p318)
であったり、
” 人は習慣を創造し、環世界を獲得していく。そうすることで周囲をシグナルの体系へと変換する。なぜそうするのかと言えば、ものを考えないですむようにするためである。
四六時中新しいものに出会って考えていては生きていけない。”(p338)⇆ ” 人間は習慣を作り出すことを強いられている。そうでなければ生きていけない。だが、習慣を作り出すとそのなかで退屈してしまう。”(p344)
といった指摘は、自分が辿ってきたこれまでから理解できるような感覚を得られ、興味深く、
最後、435ページに至る間に、このような示唆を得られる一文が点在したため飽きることなく、ペース良く一読することが出来ました。
暇と退屈
・・と、前提理解もあり、本を全体的に理解するというよりは、(理解できた)部分、部分から自分なりの全体像を積み上げていくような形となりましたが、
付箋箇所が多岐に及んだ↑こともあり、
再読の機会などを得て、暇、退屈に関して、やがて一家言持てる時も訪れるのではないかなと。
本を読み進めている間、贅沢といった感覚を得ていましたが、それは本書に書かれてあることを理解しておらずとも日常生活に何ら支障はない(はず)ですが、
それらに理解を及ばそうとする行為が、知的好奇心に基づいたもので、読書を通じて知的冒険を楽しめる一冊であるように思います。