哲学者 國分功一郎さんの『中動態の世界 意思と責任の考古学』を読了。
先月(2018年9月)、銀座蔦屋で開催された絵本作家 五味太郎さんと(國分功一郎さん)のイベントの対象書籍として買い求めていた一冊。
馴染みのないタイトルに、その厚み(335ページ/注釈を含む)に、
買ってはみたが、いざ読み始めようかという段階に突入すると、尻込みするようなところもあり、
実際、一読しただけでは大学の教養課程で哲学を履修した程度のレベルとしては「難しかったなぁ」と。
” 中動態の存在を知ったのは、たしか大学生の頃であったと思う。本文にも少し書いたけれども、能動態と受動態しか知らなかった私にとって、中動態の存在は衝撃的であった。
衝撃と同時に、「これは自分が考えたいことととても深いところでつながっている」という感覚を得たことも記憶している。
だが、それは当時の自分にはとうてい手に負えないテーマであった。単なる一文法事項をいったいどのように論ずれはよいというのか。”(p327)
というきっかけに、経緯から、機が熟して2017年4月に上梓された著書。
中動態と、哲学者たちの叡智
著者 國分功一郎さんの
” かつて、能動態でも受動態でもないもう一つの態、中動態が存在した。つまり、容易に思い描けないと先に述べた能動と受動の対立の外部は、実際に存在していたのである。
しかも、それは小難しい哲学理論のなかにあったのではない。日常的に用いられる言語のなかに、一つの態として、中動態として存在していたのである。
では、中動態とは何なのか?どのようなものなのか? “(p37)
との疑問から、様々な哲学者の考察が引用され、論理が組み立てられ、中動態について解き明かされています。
本筋では
” 能動と受動の対立においては、するかされるかが問題になるのだった。それに対し、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題となる。”(p88)
といった読み解きが展開されて行きますが、個人的には考察のプロセスで引用されている
” アレント(註:ハンナ・アレント/哲学者)によれば、未来が未来として認められるためには、未来は過去からの帰結であってはならない。未来は過去から切断された絶対的な始まりでなければならない。”(p129-130)
或いは
” ハイデッカーはこう言っているのだ。意志することは考えまいとすることである、と。”(p206)
と、点在する哲学者の叡智、ワンフレーズが興味深かったです。
未知なる領域の扉
書き出しで「難しかったなぁ」と書きましたが、全9章あるうち次章に移行する際、章の冒頭部には
” 前章でわれわれは、中動態を中心に据え、非常に長い期間に及ぶ言語の歴史についての憶測を試みた。
これまで何度も繰り返してきたように、能動態と受動態との対立は少しも普遍的なものではなく、それに先立って能動態と中動態の対立があったわけだが、
そこからさらに遡ると、動詞は名詞から発展したものであり、またそれは最初、非人称表現という形態を獲得したことが分かった。
動詞の原始的な形態は、「する」と「される」を対立させるパースペクティヴとは無縁であって、「起こる」こと、すなわち出来事を表現するものである。”(p198/第7章)
とコンパクトに要約されており、多少、哲学に慣れた方々には私と異なった印象を持たれるものと思います。
今回は主に移動時の電車内で読み進めていたことから、次回は気分の盛り上がりやきっかけに遭遇した時に、じっくり読める環境で本書に向き合ってみようと思います。