今週、Club Australia のミーティングに参加していた際、(5月28-29日)南三陸町を訪れるイベントの案内があり、
その場で今一度「東日本大震災から5年になるのか」と。
イベントはClub Australia、在日オーストラリア大使館、在日オーストラリア・ニュージーランド商工会議所がチームを結成し、
南三陸町の行政とタイアップして開催されるもので、ご関心をお持ちの方には概要をお伝えします。
オーストラリア大使館では3月11日に合わせた行事への参加もあり、オーストラリアから現地へ乗り込まれる方もいらっしゃるとのことで、国境を越えた支援の実態に、改めて当時の被害の大きさを思い知らされることにもなりました。
見ゆる世界と、その裏側の世界
私自身は、東日本大震災から2年後といったタイミングで、仙台市内を出張で訪れる機会があり、
その事実を知らなければ、震災が起こったことを気付かないまでの回復ぶりに驚いたことがありましたが、
それは単に外形的なことであったり、一面的なことであったということもあるでしょう。
震災前には、被害が甚大であった湾岸沿いの塩釜市や多賀城市にも往訪歴があり、
報道で被害状況などの現実を知った時は、平時であった頃の長閑な街並みがオーバーラップされ、どこかで自分と切り離すことの出来ない感覚も持っています。
後追いで迫る現実の重さ
震災の時は勤務先から電車通勤していたところ、当初は自宅が同じ方角の同僚とバスでの帰宅を試みるも、乗ったは良いが遅々として進まず、耐えかねて早々に下車。
徒歩に切り替えましたが、通常30分の道のりを120分程度をかけて帰宅。
道中、携帯電話での連絡はパンク状態(数少ない公衆電話は長蛇の列)、海外の友人から安否を気遣う連絡がFacebookで届いたり、
その時は「いつもより大きな地震」程度に感じていたところ、通行人も視聴出来る街中のテレビで東北の想像を絶する光景を目の当たりにし、自分を取り巻く状況を徐々に気付かされていったという次第。
震災により直面した転機
連絡手段に関しては(東日本大震災が)SNS普及の契機にもなったようで、
翌年参加した津田大介さんの下記の出版記念トークイベントで、当時、猪瀬直樹東京都副知事がゲストとして招かれ
(猪瀬副知事が)Twitterを駆使して逃げ場を失った人たちの救助に当たった模様を克明に語っていたシーンが、今も印象に残っています。
また、私は急激な変化は自覚していないものの橘玲さんの著作を通じて震災を契機とした時代の節目について考えを巡らせたり、
最近、書店で見掛けた本の中でも、新たな価値観を提示した書籍の発売を知り、
失われた現実もあれば時計の針を進みを早めた現実もあろうと、ここ数日、3月11日の影響について考えた期間になりました。
5年の重みと思い
軽々しくこの場で結論めいたことを書き綴ることはしませんし、出来るほどの実態把握に、感情の整理も出来ていません。
朝、一つ屋根の下で被災された方々に祈りを捧げ、発生時刻に改めて心を鎮めた一日、
5年が経過したというこの日に自分が感じていたことを、この場に書き留めておこうと思いました。