プロレスラー武藤敬司選手が、グレート・ムタの軌跡を振り返った『グレート・ムタ伝』を読み始めてから
イントロダクション ー 「武藤敬司」と「グレート・ムタ」
Chapter 1 CWF〜WWC〜WCCW〜WCW ERA
Chapter 2 NEW JAPAN PRO-WRESTLING ERA Part-1
Chapter 3 NEW JAPAN PRO-WRESTLING ERA Part-2
Chapter 4 ALL JAPAN PRO-WRESTLING ERA
Chapter 5 WRESTLE-1〜PRO-WRESTLING NOAH ERA
と章立てされているうち Chapter 2 NEW JAPAN PRO-WRESTLING ERA Part-2 まで読み終えたので、そこまでのおさらい。
サイン本入手機会に
即反応して購入。
ヒールで得られたエクスタシー
” 俺が初めてアメリカに行ったのは、デビューして1年が過ぎた1985年11月だった。”(p8)
と、武藤敬司選手の渡米時に始まる本書は、
” ベビーフェースでやっていた時期は2〜3試合目というポジションで、あまりランクは高くなかった。
俺は自分の身体能力や技術には自信があったけど、やっぱり日本人がいくらそれを見せてもアメリカ人の絶対的なベビーフェイスがいれば霞んでしまうよ。”(p13)
という上陸直後、ホワイト・ニンジャのリングネームで上がっていた立ち位置から
” ある日、ベビーフェースのトップだったワフーを裏切ったんだ。
その時、桜田さんはヒールのトップとしてワフーと抗争していて、その試合に同じに日本人のホワイト・ニンジャが乱入してね。
最初は桜田さんを殴るふりをして、いきなりワフーをぶん殴ったんだ。
そうしたら、客が物凄くヒートしたよ。俺を目掛けて、いろんなものをリングに投げ込んできたからね。ジャップがどうのこうのって汚い言葉も飛び交うし、日本では味わえない空気が客席に溢れていたよ。
その時に感じたエクスタシーは、凄く新鮮だった。客を手のひらに乗せている優越感というか、高揚感が体の中に押し寄せてきたよ。”(p13/註:桜田一男=ケンドー・ナガサキ)
というヒールの覚醒を経て
” グレート・ムタがカブキさんの息子というキャラクターになったのは、ザ・グレート・カブキの生みの親であるゲーリーがマネージャーになったからだよ。”(p44)
とグレート・ムタ誕生の巡り合わせに、
” ムタは3月にデビューして、5月にはスティングのWCW世界TV王座に連続挑戦している。ここからムタのステータスが上がっていったんだ。
ムタのステータスを上げてくれたのは間違いなくスティングで、この後にフレアーと抗争して、さらにランクアップしていったんだよ。”(p46)
と、早々にアメリカのマット界で確立されていった地位に、
” 俺がアメリカから帰国したのは、1990年春だった。当たり前だけど、帰国した当初はグレート・ムタを日本でやるつもりなんて毛頭なかったよ。
基本的に武藤敬司とWCWでのグレート・ムタのファイトスタイルは変わらない。アメリカには武藤敬司は存在しないからね。
大きな違いは、見かけだけなんだ。俺の中では武藤敬司=グレート・ムタだったから、日本では素顔の武藤敬司として勝負しようと思っていたし、ムタになる必要性はないと思っていた。
それが会社の方から、この年の9月シリーズでムタをやるように言われたんだ。会社から言われれば、やるしかねえよな。そこは団体に所属する選手の宿命ってやつだよ。”(p64)
と思惑から外れたグレート・ムタ日本上陸、デビュー戦での躓きを2戦目の馳浩戦で払拭し、
アントニオ猪木選手らの評価を獲得(=猪木さんの引退カウントダウンの一発目でムタが使われた/p72)していった辺りまで。
武藤敬司 x グレート・ムタの相乗効果
武藤敬司選手のキャリアをしっかり頭に入れられていないながら
” 武藤敬司とグレート・ムタのキャラクターをきっちり分けたことで、2人のレスラーを同時に存在させなきゃいけなくなってしまったからな。
俺の体はひとつなのに、2人のレスラーを別々にやらなきゃいけないわけだ。俺にとって面倒くさいこと極まりないよ。
ただ、その2つのキャラクターを使い分けられたからこそ、俺もこの年齢になるまでプロレスラーとして生き残れたのかもしれない。”(p70)
或いは
” 続けられているのは身体能力とは別に、人を惹きつける「何か」が自分にはあるんだと思う。それを若い頃から磨き続けてきたからこそ、生き残っているんだろうな。”(p50)
と天賦の才に、意識されたことに、天才と称される非凡さが随所に伝わってくる内容で、中、後半への興味を高められています。