メディアアーティスト 落合陽一さんが、毎日300枚撮られているとの写真中心に開かれている個展「質量への憧憬」
に合わせて開催された
アーティスティック・ディレクターYASUNARI KIKUMAさんを迎えてのトークショー「時代性と今、写真メディアで表現できること」に参加。
カメラ、写真に撮影のあれやこれや
イベント告知のタイミングを上手く捉えての参加でしたが、冒頭、落合陽一さんがYASUNARI KIKUMAさんをゲストに迎えたのは
「光に対して滅茶苦茶詳しい。トークショーに呼んだら絶対面白くなる」と直感されての人選であったと説明があり、
そこからYASUNARI KIKUMAさんが、カメラマンを志すまでの経緯に、なられてからのお話しに、
続いて落合陽一さんが、学生時代の30秒毎に自動で写真を撮り続けるカメラからLeicaに至るまでの遍歴といったところから。
そこからテーマに沿った内容に移行していき、スマートフォンで誰でも写真を撮る時代になったが、フォトグラファーの役割?といった落合陽一さんからの質問があれば、
スマートフォンでは光を当てて撮ることが出来ず、湿度感、温度感といったものも出せないといった機材面の話題など、写真という切り口で、光を含め話題は多岐に及びました。
興味惹かれたところでは、YASUNARI KIKUMAさんがSNSの登場によって、セレブリティがいいと思った写真が良いと思われるようになったことに、SNSの浸透で汚いもの(キレイでないもの)が撮られなくなったといったことを指摘。
その発言を受けて落合陽一さんも、写真展などで気に入った写真を問われ、有名な写真を選ぼうとする人など、自分自身で基準を持っていない人たちへの言及があり、同意出来るところあり「そういうものかなぁ」と。
Instagramには手を伸ばしていないので承知していませんが、Facebookを例にすると写真の良し悪しというより、写真を撮った人=「誰が」に対してのウェートが置かれる印象で、
写真を撮る行為、行動がごく日常的になったといえども、当然ARTとは別次元で、また撮影が繰り返されることで感性が育っているかというと、また、それも別であるように。
汚い写真の話しの中で、珍しい写真という言葉も出て、落合陽一さんが「皆とちょっとづつ違うことをやって広げていき多様性を認め合っていく」といった指摘は、(落合陽一さん)らしさを感じた発言で心地良かったです。
日常的に親しむカメラ/写真の奥側
トークで70分ほど、その後、質問タイムで計約90分。
(2019年1月)月初以来の落合陽一さんの登壇のトークイベントでしたが、
(その時☝️とはガラッと)異なったテーマで、しかも自分が日常的に撮っている写真に関するお話しもろもろ、
特にスマホ(iPhone)カメラで他のデジカメの役割は終わったくらいの認識でいただけに、
光への意識など、(写真で)これまでとちょっと違った楽しみ方が出来るかな〜と、帰路、軽くこれまでの考えを改めさせられてきました ^^