人類学者/立教大学異文化コミュニケーション学部 奥野克巳教授の『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民』を読了。
昨秋、通信販売で入手した本とともに同封されていたチラシの
記載内容から興味を持って購入した一冊。
囚われている思い込みからの解放
” 現代日本社会の私たちの周りで進行する諸問題の底の部分には、世界に囚われたかのような思いこみと言っていいほどの前提があるのではないか。
それは、生きていくためには働かなければならないという条件であったり、働くことが目的化して、働くことの中に発生する課題に向き合わなければならないという思いこみであったりす。
また国家という前提があって、所得に応じて税金を払わなければならない仕組みが常識としてあって、困ったことがあれば国家が助けてくれるはずだと考えていたり、
実際に、国家や政府にこうしてくれ、ああしてほしいと願ったりすることなどである。”(p 009)
と本書冒頭「はじめに」で問題提起があり、
” 思いこみような前提がないか極小化されている場所から私自身の思考と行動の自明性を、照らし出してみることはできないだろうか。
そんなところに出かけて行って、人間の根源的なやり方や考え方について考えてみることはできないだろうか。
そういった思いが、つねに私の頭の中にあった。”(p 010)
との仮説から、
” 直観としては、そうした理想に近い社会は、狩猟採集を主生業とする社会にあると思われた。
そのひとつが、熱帯のボルネオ島で、狩猟採集を主生業とするプナンである。
プナンは、ボルネオ島(マレーシア、インドネシア、ブルネイの三つの国から成る)に暮らす、人口約一万人の狩猟採集民あるいは元・狩猟採集民である。”(p 010)
を著者である奥野克巳教授が、一年+断続的にプナンの居住地を訪問し、行動をともにしたことで書き上げられたのが本書。
反省も所有もありがとうもない世界
シェアされている気づきの幾つかを引用すると・・
” 反省しない生き方というのは、おそらくストレスがたまらない。その意味で現代社会で、反省しないで暮らせたならば、なんて気が楽になるだろうと感じられて、反省しないで生きていくことを宣言したくなる誘惑に駆られる。
どうして、日本社会では反省しないで過ごすことができないのだろうか。いや、反省しないでやり過ごしていくこともできるのだろうか。
そういうこともひっくるめて、プナンは、反省するという人間行動に関して、私たちに大きな問いを投げかけている。”(p 044)
“与えられたものを他人へとすぐさま与えて、ものを循環させるスピリットを持っていれば、彼のもとには、その彼を敬い、彼のことを慕う人々が集まる。
彼の言葉は、集まってきた人々に受け入れられ、人々を動かす原動力になる。
ビッグ・マンの口から言葉が発せられれば、人々は狩りに出かけるし、言い争いは鎮められる。”(p 070)
或いは
” プナン語には、何かをもらった時の「ありがとう」という感謝の言葉がない。たまに発せられる「jian kenep」(よい心)という言い回しは、「4」で見たように「よい心がけ」であると、分け与えた相手の精神を称えるためのものである。”(p 122)
といったもの。これらのきっかけをもとに、
” 私たちの社会では、競争の原理が働いて、優秀な人材が生みだされ、専門性のもとに、知識と能力が磨き上げられる。
個人は、知識を増やし、能力を高めるという「清く尊い」努力を続けることを求められる。
その結果として、優秀なる人物は、知識と能力に見合った報酬を手に入れ、財産を築くことになる。
所期の目的が達成された場合、その個人は、物質的・精神的な幸福を手に入れることになる。”(p 126)
我々が生きる社会がコントラストと浮かび上げられ、考えさせられたり、
” プナンは、向上心や反省心を持ち、人間としての完成に近づいていくという「直線的な時間」を生きている私たちとは異なる時間形式を生きていることになる。
「反省しない」ことは、永遠回帰を生きる人々にとっての生きるための技法だったのではあるまいか。”(p320)
と奥野克巳教授がフィールドワークを通じて得た解が示されています。
全16章、全331ページに及び、当初、年末年始期間に読了予定が伸び、後半、冗長と感じられた部分もありましたが、
真逆とも言えるプナンの生態を知るにつれ、日ごろ自分自身に社会の硬直化を実感させられ、
即実践ということとは違いますが、一旦、立ち止まっての棚卸しの機会に、思考の枠組みを広げられるような感覚を得ました。