先週末、中間記⬇︎をアップロードした
『お前はただの現在にすぎない』を読了。
テレビにおける表現とは何か
出版当時1969年の状況を踏まえながら、全514ページ、読み切る胆力も問われた著書で、溺れ気味でしたが、
(出版の)契機となった
” 成田事件で提起された「取材者と被取材者の問題」、村木・萩元配転で提起された「テレビにおける表現とは何か」などの問題 “(p335)
という問いに対し、最終章( V章 テレビはジャズである )
” テレビジョンもそうです。送り手と受け手があるのではなく、全員が送り手と受け手なのです。
既に書かれている脚本を再現することではなく、たえまなくやって来る現在に、みんなが、それぞれの存在で参加するジャム・セッションです。”(p363)
或いは
” 人びとは事件の生起から終結までを持続して見たい ー ということを。そしてテレビジョンとは、それが可能な媒体なのである。これで三つのことがわかった。人びとは、<遠く>を、<現在>、<持続> して見たいのである。”(p366)
といった方向性、解(のようなもの)が示され、考察が深められていきます。
1969 >> 2021 >> ・・?
TBSの番組制作に対する風当たりから派生した人事、処遇を巡って制作者集団テレビマンユニオンが立ち上げられ、
” すべての放送労働者は <おまえにとってテレビジョンとは何か> という問いつきつけられてきました。”(p398)
との命題に対し、さまざまなTV人及び周辺にマイクを向け、書き上げられていった著書ですが、
半世紀の時を経て、テレビに向けられる問いも変わってきたであろうと、本書のアンサー本(続編)のような企画(出版)があれば、また興味あるところです。