元豊ノ島関 井筒大樹親方が、18年の土俵人生を振り返った『豊ノ島自伝 七転び八起き』を読み始め初日で
第1章 宿毛での少年時代
第2章 双葉山道場での猛稽古
第3章 激動の関取時代
第4章 関取の座
第5章 引退へ
と章立てされているうちの 第3章 激動の関取時代 の中途までを読み終えたので、そこまでのおさらい。
サイン本販売情報に反応して
入手していた経緯。
生命の危機を抱えながら歩んだ力士への道
まず、幼少の頃、お父さまから
“「お前はこれから勉強して日本一になれるのか? 相撲だったら日本一になれるかもしれない。だったら、相撲だけをやって日本一を目指せ」”(p31)
とユニークな後押しを受け
“「相撲で日本一になれ」という父親のお願いは中3にして、実現することになりました。”(p44)
と早くから頭角を現していた一方、小二の頃、
” 「てんかん」と診断され、「これで意識が戻らなかったら、覚悟しなければなりません」と言われるほどの話だったそうで “(p35)
という生死に関わる危機を乗り越え、当時の元時津風理事長(元大関豊山)に
” 私は相撲協会の停年退職を半年後に控えており、「半年しか一緒にいられないが、それでもいいのか」と聞きました。
すると彼は、「それでも時津風部屋に入門したいです!」と力強く言ってくれ、感動したのが昨日のことのようです。”(p97-99)
との胸に飛び込んで始まった力士人生。
体格は力士として恵まれずとも
印象に残ったのは、各章の間に「もう一人の豊ノ島 」との見出しで肉親や関係者が声を寄せており、上述の元時津風理事長は
” 理事長に就任後、日本体育大学にお願いして、反復横跳びや50メートル走、垂直跳び、背筋力、ハンドボール投げなどの8種競技を受けさせる第二検査を設けました。
当時169センチだった梶原大樹は、身長173センチ、体重75キロの力士採用規定に足りませんでしたが、この「第二検査」で運動能力抜群の成績を挙げて採用され、奮励努力の末に、関脇にまで昇進しました。
ある意味、彼は、「第二検査」の方針に答えを出してくれた力士なのです。”(p96)
と振り返られた入門時のエピソード。また、てんかんを患いながらも
” あの体で一時は現役最年長関取と言われるまで相撲を続けてこられたのは、我が息子ながら大したもんだと思います。”(p67)
とお母さまが力士人生を振り返られた点。
豊ノ島関のことは現役時代フォローはしておらず力士の一人といった程度の受け止めでしたが、(力士として)不利を抱えながらも当代を代表する一力士までファンの脳裏に刻まれたキャリア。
次の項目は「野球賭博問題」となっており、波瀾万丈でもあったその後の展開もまた興味抱かされています。