政治学者 白井聡さんの『国体論 菊と星条旗』を読了。
読み進めている中途に、
トークイベントを挟んだ経緯から、
本の骨格を掴めた感覚から、全体的に難解と思われたハードルを下げられた印象も、
” 以上、われわれは駆け足で「国体」の二度にわたる形成・発展・崩壊の歴史をたどってきた。
近代前半だけではなく戦後史を、国体概念を基軸としてとらえることの有効性ばかりでなく、今日顕在化した永続敗戦レジームの危機をとらえるうえで、
この概念こそが不可欠な視覚となることを立証しようと、筆者は努めてきた。”(p316)
の本書大半を占める部分は、自分自身、土台づくりが必要で、今後の課題と。
それでも、本書冒頭の二〇一六年八月八日の
“「お言葉」によって明らかにされたのは、日本社会が解決済みとして見なしてほとんどが忘れ去っていた問いをめぐって、天皇その人が孤独な思索を続けてきたという事実ではなかっただろうか。
そして、危機において、天皇は自らの思索の成果を国民に提示した。
つまり、「象徴天皇制とは何か」というという問いへ国民の目を向けさせることによって、
それが戦後民主主義と共に危機を迎えており、打開する手立てを模索しなければならないとの呼び掛けがなされたのである。”(p24)
天皇陛下の「お言葉」に端を発した問題提起に対して、
” 腐朽した「戦後の国体」が国家と社会、そして国民の精神をも破綻へと導きつつある時、本来ならば国体の中心にいると観念されてきた存在=天皇が、その流れに待ったをかける行為に出たのである。
この事態が逆説的に見えるのは、起きた出来事は「天皇制による天皇制批判」であるからだ。
「象徴」による国民統合作用が繰り返し言及されたことによって、われわれは自問せざるを得なくなったのである。
すなわち、アメリカを事実上の天皇と仰ぐ国体において、日本人は霊的一体性を本当に保つことができるのか、という問いをである。”(p338)
結びでの受けに、
” 応答せねばならないと感じたのは、先にも述べた通り、「お言葉」を読み上げたあの常のごとく穏やかな姿には、同時に烈しさが滲み出ていたからである。
それは、闘う人間の烈しさだ。「この人は、何かと闘っており、その闘いには義がある」ー そう確信した時、不条理と闘うすべての人に対して筆者が懐く敬意から、黙って通り過ぎることはできないと感じた。
ならば、筆者がそこに立ち止まってできることは、その「何か」を能う限り明確に提示することであった。”(p340)
本書に込められた白井聡さんの烈なる思いに大いに考えさせられ、また、重みを伴った読み応えを実感することが出来ました。
本書を手に取るまでは、天皇陛下譲位に関して表面的に年齢的な限界としか捉えられていませんでしたが、
仮説、解釈が含まれていようと、全340ページに至る前、早々に腹落ちさせられた感覚に対して、日本人の一人として向き合うべきことを見せつけられた思いでした。