武田砂鉄さんが危惧する「気配」で自爆に向かう日本:『日本の気配』中間記

フリーライター 武田砂鉄さんの『日本の気配』を

読み始めて、全5章あるうちの2章まで読み終えたので、そこまでのおさらい。

「はじめに」で、

” 本書のタイトルは『日本の気配』である。なせ、空気ではなく、気配なのか。空気を読めよ、とは言われるが、気配を読めよ、とは言われない。気配なんて読めないからだ。

今、政治を動かす面々は、もはや世の中の「空気」を怖がらなくなったように思える。

反対意見を「何でもしてくる人たち」と片せば、世の中の空気ってものを統率できる、と自信に満ちている。

「空気」として周知される前段階を「気配」とするならば、その気配から探りを入れてくる。管理しようと試みる。

差し出された提案に霊獣する私たちは、「気配」から生み出される「空気」をそのまま受け流す。

それは政治の世界だけに留まらず、メディアの姿勢にしても、個々人のコミュニケーションにおいても同様ではないか、とも思う。”(p4)

と、今の世の中を捉え、

 第1章 空気と気配

 第2章 政治の気配

 第3章 愚者と巧者

 第4省 霊獣する私たち

 第5章 強いられるコミュニケーション

という章立てのもと、

” 「自分で自分のことを決めるというのは、いったいどういうことなのか?自分で自分を支配することは可能なのか?主権は可能であるのか?」

そう、私たちはこの辺りに極めて鈍感で、鈍感を隠蔽するために、自己から湧く意志を愛ですぎる。

意志を愛でるために、フラットでいることを目指す。いつだって空気を読もうとする。新しいものを提供しようとする役職は、空気の手前の、世の中の気配を察知する。

文化が軽薄になっているとすれば、そういう仕組みにいくばくか原因はないか。”(p58)

といった具合で、論が展開されています。

「今、この世の中」を考えてみる

ポップに感じれる表紙とは裏腹に、取り上げられているテーマ、書かれてある文体とも硬めで、読み進めに相応のパワーを要しますが、

今まで自分になかった視座が散見され、全291ページに及ぶ武田砂鉄さんの頭の中(考え)を

読書を通じて触れることを楽しみにしたいと思います。


Comments

comments