筒井康隆さんの『誰にもわかるハイデガー』を読了.-
ポイント2倍デーに「もう一冊何かないかなぁ」と探している最中に「これだ!」となった一冊。
” ご存知のとおり、二十世紀最大の思想家と言われる人です。そのハイデガーが三十七歳のときに、一九二七年ですけれども、書いたのがこの『存在と時間』です。
二十世紀最大の哲学書と言われている難解な本で、これが中央公論社版の「世界の名著シリーズ」のハイデガー篇、これ一冊まるまる『存在と時間』なんですね。
二段に分かれてぎっしりと難しいことが書かれているんです。”(p10)
と、難解なことで定着している古典的名著を
” 本書は、普通の意味での解説を必要とはしない本である。「文学部唯野教授」の講義は、わかりやすく、タイトルにある通り「誰にもわかる」からである。
ハイデガーの主著『存在と時間』をこれ以上わかりやすく解説することは不可能だ。”(p95)
本書で「解説」を担当されている社会学者 大澤真幸さんに言わしめたもの。
本書が刊行された経緯は 👇
” 新調カセット・講演 筒井康隆『誰にもわかるハイデガー』(一九九〇年一〇月刊/一九九〇五月一四日池袋西武スタジオ200において収録)として発売された内容をもとに書籍として再構成された。”(本書にある記載を引用)
身近にある「死」を経て・・
筒井康隆さんが、『存在と時間』に触れたのは
” じつは私、一昨年、ちょっと天皇陛下が下血なさったのと時を同じくして下血しまして、・・中略・・
一ヶ月間入院しろということで、これはそこの胃腸科の科長さんの好意なんですけれども、作家だから仕事をするだろうということで、個室をあてがわれました。
ただ個室のある病棟といいますか、その階は当然ながら重症の患者さんがたくさんおられるわけです。
ときどき突然女の人のわっと泣く声が聞こえたりするんです。ご主人が亡くなられたんですね。
つまり日常的に死というものが身近にあるんです。
私自身は自分でべつだん死ぬほどの病気ではないとわかっているんですけれども、やっぱりなんとなく死というものを考えてしまう。
何か死という現象について知りたいと思い始めたんです。で、やっぱりそれは哲学じゃないかと思いました。”(p11-12)
という経緯から。
どのようなことが書かれてあるかというと(抜粋出来る範囲で)・・
” ハイデガーは、現存在というのは自分を気遣う存在だと言っています。人間は自分を気遣うんです。何よりも自分を気遣う。
それはなぜかというと、つまり死ぬからです。自分が死ぬと知っているから自分をいちばん気遣うんです。”(p23)
や
” 人間というのは常日頃、常に新しい自分の可能性というものを見つけて生き続けている存在なんですね。
自分の可能性、つまりその時その時の可能性を見つけようとしている存在です。
人間というのは一瞬たりとも同じではないわけで、どんどん変わっていってますから、その一瞬ごとの、その時その時の可能性ですね。それを追求していく、そういう存在です。”(p36)
或いは
” 非本来性というのはどういうものかと言いますと、できるだけ死から目をそむけるようにする生き方です。
自分はまだまだ死なないとか、自分だけは死なないとか、あるいはそれを忘れるために気晴らしをするとかですね、
そしていろんな人と付き合って、世の中の人と調子を合わせて面白おかしくやっていくというのが非本来的な生き方ですね。
そして我を忘れて仕事に夢中になるというのも、非本来的な生き方になってきます。”(p44)
といった具合。
哲学名著のエッセンスを分かりやすく
講演が文字起こされた本編は、92ページまでで、上記引用のとおり、簡潔明瞭な文章にユーモアを交えて語られ、
一気に読み進められてしまいます。但し、第一講と第二講とあるうちの第二講は
” 第二編というのは非常に難しくなります。第一編の三倍くらい難しくなってですね。しかも読者に不親切ですね、よく分かりません。”(p77)
と、ハイデガーの包括的理解のハードルは高く、また、繰り返し読むことで理解度は深化していくものでしょうが、
筒井康隆さんというフィルターを通して、哲学の古典的名著の要諦に触れることの出来る貴重な一冊であると思います。