オードリー 若林正恭さんが、37年かけて探し当てた等身大の自分でいることのススメ:『ナナメの夕暮れ』読了

お笑いコンビ オードリー 若林正恭さんの『ナナメの夕暮れ』を読了。

本屋に立ち寄る度に、本書を見かける機会が多く、そのうち売れている情報も聞かれ、

サイン本入手の機会をうかがっていたところ、

入手していた書籍に書かれていたサイン

運良く機会に恵まれ、読み始めたもの。

その強力なる内なる自分と対話する力

本書は

” このエッセイは、2015年8月から2018年4月まで雑誌「ダ・ヴィンチ」に連載されたものと、この書籍用に加筆されたもので構成されています。”(p6)

という下地で、

販売部数に関して「10万部」という情報を目にしましたが、読んでいると売れるのも理解出来る内容で、

例えば、

“「みんなといないと寂しい人」がいて、そういう人は「みんなが、みんないないと寂しい」のだと思い込んでいる。

だから、一人でどこかに行った話をすると「寂しくないの?」と聞いて来たりする。

だから、一人でどこかに行った話をすると「寂しくないの?」と聞いて来たりする。

・・中略・・

一人で居てもあまり寂しくないのは、自分と話しているからなのだ。

思えば子どもの頃からそうだった。駐車場で蟻の行列を見ながらかなりのテンポの早さで自分と会話していた。

高校生の頃はといえば、授業中にぼーっと外を見ながら自分と話していた。大人になってからも飲み会でずっと自分と話していて、先輩に「何一人で黙りこくってんだ。つまらないなら帰れ」と怒られていた。

ぼっーとしている人は何も考えていないんじゃない。猛烈に自分と会話しているのだ。”(p21-22/一人で平気なんですけど)

と若林正恭さんの内なる声、葛藤が、見事に言語化されていて、

時折、読みづらいところもあり、それは若林正恭さんの個性とも、奥深さであるともいえるかと思いますが、

その分、あっさり読了に至るタイプの本ではなく、時に立ち止まることを余儀なくされます。

読んでいて面白かったところの幾つかを抜粋すると・・

” 他人の正解に自分の言動や行動を置きに行くことを続けると、自分の正解が段々わからなくなる。

・・中略・・

自分の正直な意見は、使う当てのないコンドームの様に財布にそっと忍ばせておけばいい。それは、いつかここぞという時に、行動を大胆にしてくれる。

ぼくは、仕事終わりの喫茶店でジンジャーエールを飲みながら腕を組み、違和感も抱いている先輩の価値観、仕事関係の人を価値観、両親の価値観、視聴者の価値観、このあいだ会ったキャバクラ嬢の価値観、今隣で愚痴をはき続けている見ず知らずの人の価値観を徹底的に批判していた。

つまり、本音を確認していた。すると、自分の価値観がむくむくと立ち上がってきた。

それを大事に包んで人目につかないようにそっと財布に忍ばせて店を出た。

いつか、それを使う日まで僕は強者に対して物分かりの良いフリをし続けるつもりだ。それを使うタイミングを、僕が間違える筈がない。”(p26-27/自分の正解)

或いは、

” ぼくは天才になれないという能力的な限界に絶望する前にこんな解釈(回避)をする。それは「君の理想とする天才と呼ばれるような人はカッコ悪い」という強引な決め付けだ。

右記のようなカッコ悪くて不健康な天才になるより、地点は低くても等身大の自分の方がユニーク(気楽という言い方でも良いだろう)じゃないだろうか?という提案だ。

自分の場合、その気づきを得るまでに37年もかかった。37年だ。理想の自分に追いつかないことに苦しんでいるから、

自分と世界を呪って、人を嫌な気持ちにさせて、付き合ってくれた彼女を傷つけ、いろんな人に迷惑をかけてきた。

なんということだ、理想の自分に追いつこうとしているから、今日の自分を生きることはなく、常に未来の理想化された自分を生きている。だから、今日をずっと楽しめなかったんだ。

今日じゃないな、今だな、もっといえばこの一瞬を楽しく生きてこられなかったんだ。37年もね。

「今日の自分は本当の自分じゃない。自分というものはもっと高尚な人間なんだ」という言い訳(逃避)をして今日の自分をないがしろにしてきたんだ。”(p57/2009年とぼくと)

といったところ。

「自分探し」でたどり着いた向こう側

オードリーの漫才にコントに好きで時折、Youtubeで検索しては視聴していますが、

その源泉に触れたというのか、「お笑いってここまで感受性が繊細でないと人の心は掴めないのかー」といった心情に至り、

若林正恭さんの心の声、自分自身とのキャッチボールの模様に共感しながら、感心しながら200ページを超える読書を楽しみことが出来ました〜


Comments

comments